神武天皇以後、日向は重視されず
『延喜式』の神代三陵『紀』には、“神代”の三人のミコトたちについて、それぞれ名前のついた陵に葬ったとする記事がある。ニニギノ尊を例にとると「筑紫の日向の可愛(埃)の山陵に葬る」とある。
だが、いわゆる東征(東遷)以後の大和の天皇たちが、何かの重要事件にさいして、日向にあるはずの“神代三陵”に使者を派遣したという記事や、陵の修理や管理についての記事はまったくない。
景行天皇の場合、『紀』では自ら九州に遠征をしたという設定になっていて、日向国では高屋宮という行宮を作ったことになっている。
高屋というのは、ヒコホホデミノ尊を葬った「日向の高屋山上陵」の地名にあらわれている高屋のことであるとみてよかろう。だが物語のうえで、景行が神話のうえでの祖先の陵に詣でた話にはなっていない。
平安時代の資料に記録されていたこと
そればかりではない。平安時代前期にまとめられた『延喜式』にも、注目を要する記録がある。『延喜式』は、律令政府の運営上欠くことのできない慣習や規則を細かく記録した書物であるが、その21巻に諸陵寮の記録を含んでおり、神代三陵の記事がある。
諸陵寮の冒頭には、日向埃山陵をはじめとする陵を列記し、そのいずれにも「日向国にある。陵戸なし」と書いている。
『延喜式』では、一般に陵名のあとに所在地などを示している。たとえばイワレヒコ(神武)の場合は、
(1)大和国高市郡にある、(2)兆域は東西一町 南北二町、(3)守戸は五烟
と詳細な記述がある。このような一般的な記載法に比べると、神代三陵については、国名はあるけれども(1)のような郡名がない。実際の陵墓の範囲や広さを示す(2)の記載がない。さらに天皇家にとって重要な先祖であるにもかかわらず、(3)の管理をする者の存在が認められない。
これらから考えると、実際に該当する古墳があった可能性は少ないように感じられる。

