神代三陵があったのは宮崎県?鹿児島県?
事実、『延喜式』でもこれらの神代三陵については、山城国葛野郡(現・京都市上京区)にある田邑陵(文徳天皇陵)の南原で祭るよう決められていた。その祭場の広さは東西・南北とも一町(約100メートル)で、奈良時代や平安時代の陵墓の兆域に比べるとたいへん狭い。
それだけではなく、これらの三陵が「日向国にある」とする点にも問題がある。いうまでもなく、ここでの日向国とは大隅や薩摩は含んでおらず、宮崎県のことである。
考古学的な根拠は少ないけれども、主として地名や信仰によりながら、それまで宮崎県内にも神代三陵の候補地はあったにもかかわらず、政府は1874年(明治7)に、三陵のすべてを鹿児島県内に政治決定している。
このことは、『延喜式』とはくい違うが、神話にあらわれた地名を重視するかぎり、やむをえない結論のように思える。
なぜ「遠くから見るだけ」の存在だったのか
このように整理してくると、問題点はかなり明らかになってくる。8世紀以前には日向国は大隅や薩摩の地を含んでいた。しかし、いわゆる神名帳の部分をはじめ、『延喜式』の全体の扱いでは、薩摩国と大隅国を日向国から分けて記述している。
だから、実際に当時、神代三陵なるものがあったのであれば、『延喜式』では薩摩国にあると書いているはずであった。神代三陵が日向国にあるというのは、たぶんに精神的な存在であったからであろう。
10世紀の段階でも、南九州にあるはずの神代三陵は、個々の場所が明確に掌握されていたのではなく、平安京近くの真原岡の田邑陵から遠く拝み見るという習慣があったことが知られるのである。
どうして大和朝廷が神代三陵について関心を示さなかったのか、そこに何らかの史実が潜んでいるのか、それとも古代日本人の先祖観に関連するのか、これについては、さらに考察を深める必要がある。
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