海を越えてきた神話の登場人物たち

文明10年(1478)、臨済の僧であり名高い儒学者であった桂庵玄樹が薩摩に招かれ、いわゆる薩南学派を興した。この機会を利用して、彼は薩摩や日向の地の旅をしている。

鵜戸を訪れたとき、“鵜戸廟びょう”に詣もうで、次のような臨場感にあふれた詩を残している(『島陰漁唱』、『島陰集』ともいう)。

扶桑開闢かいびゃく帝王城 神武霊蹤れいしょう
今古驚定百龍燈照深夜 海濤打岸怒雷声

このように、宣教師たちが記録を残した以前にも、鵜戸の洞窟を神武の霊蹤、つまり聖跡とする神話と結びついた信仰があったことを知ることができる。

南九州を舞台にしたニニギノ尊ミコト・ヒコホホデミノ尊・ウガヤフキアエズノ尊らの物語、さらにそれに関連して登場する塩土老翁しおつちのをじの物語では、その地域の支配者層の人びとが海上交通によって遠隔地と交渉をする能力をもっていたり、あるいは遠隔地についての知識をもっていたり、ときには自らも異国と思われる遠隔地に出かける人として描かれていた。

また豊玉姫とよたまひめや玉依姫たまよりひめなどは、異郷から海を越えて南九州に至り、豊玉姫にいたってはウガヤフキアエズノ尊の出産を終えたのち、再び異郷に帰っている。

航海者、あるいは海戦の指揮者だった

このような行動は、イワレヒコ以後の天皇や皇后たちとは異なったものとして私には感じられる。とくに大和やまとの天皇や皇后たちは、わずかの例外を除くと、海を越えない人たちであった。

その意味では、ウガヤフキアエズノ尊と海神の娘・玉依姫との間に生まれた四人の男子のうち、長子(五瀬命いつせのみこと)は大阪湾で命を失い、次男(稲氷命いないのみこと)は「妣ははの国として海原に入り」、三男(御毛沼命みけぬのみこと)は「海の穂、つまり波を踏んで常世の国に渡る」などの行動をしている。

これらの海原や常世の国についてはさまざまな解釈があるけれども、新羅しらぎや南中国(華南かなん)とみる説があり、私も異郷の地説が妥当であると考えている。つまり彼らは、航海者であったり、ときには海戦の指揮者として登場しているのである。

南九州の重要な古墳群