住民の利益と施主の利益どちらが大事か
しかし、高層マンションを建てさせないというのは、立派な事業目的ではないのか。世界遺産登録をめざすのが市の「事業」であるなら、それに適うが、もっと広い視野でこの問題を眺めれば、なおさら「事業」と呼べるはずだ。
ユネスコによる、バッファーゾーンを設置して景観を守るという条件は、じつは「グローバルな視点」だと先に述べた。世界中の多くの都市が、歴史的景観や美観を守ることを、いわば事業化して取り組んできたし、いまも取り組んでいるという意味である。
冒頭で述べたように松江という都市は、空襲を経験した日本においては希少な、普遍的な価値をもつ城下町であり、その中央に国宝の天守を戴く稀有な歴史都市である。したがって、その景観自体が地域の宝であり、日本人の宝である。
こうした問題は拙著『お城の値打ち』(新潮新書)でも述べているが、地域の利益という観点から、もう少し具体化して述べてみよう。
いま守られようとしているのは、事業主体である京阪電鉄不動産が当該の土地から利潤を生み出す権利だが、その「私権」を守ることで、まず、周囲の多くの住人が快適に暮らす権利が奪われていいのか、ということを考えなければならない。
事実、2024年8月には、町内会から建設反対の陳情書が市議会に提出されている。地方自治体が存在する目的は、「そこに住む人々の生活を支えること」であるはずだ。そうであるなら、美しく快適な景観を維持して人々の暮らしの快適さを維持することは、松江市にとって優先度の高い事業であるはずだ。
相手を不快にさせたり不利益をあたえたりすることは、昨今、各方面でハラスメントとして社会問題化している。景観も同じではないだろうか。現に住民団体が不利益を訴えているのである。この歴史都市において景観ハラスメント、いわば「景ハラ」対策の重要性が認識されていないのは、自治体の罪であろう。
地方自治体の責務を放棄している
さらに、もう一歩進んで考えてみたい。松江城が世界遺産に登録されれば、観光客は増えるだろう。世界遺産は措いたとしても、松江の町並みが維持され、城下町の風情が残れば残るほど、観光客の増加もインバウンドの効果も期待でき、それが市の豊かさにつながるはずだ。雇用も創出され、ひいては住民の生活水準の向上につながっていく。
だが、松江がもつ歴史都市としてのかけがえのない価値は、都市のシンボルの高さを超えるたったひとつのマンションの登場により、著しく毀損される。私企業が刹那的に上げる利益を守るために、将来にわたる住民の権利や利益が著しく損なわれてしまう。
その権利や利益が守れなくて、なにが地方自治体だ、なにが市長だ、といいたい。「事業目的がない土地を買い取ることはできない」と、この期におよんで建前論を持ち出し、「そこに住む人々の生活を支える」という地方自治体の最大の責務を放棄している。いまがんばらなければ、松江市は将来にわたって大きな負債を背負うことになる。そのことを強く訴えたい。
事業主体の京阪電鉄不動産は、文書で取材を申し込んだが、「回答は差し控えさせていただきます」が返答だった。しかし、この特別な町にこのようなマンションを建てれば、それが建ち続けるかぎり、当該建築も、住人も、そして施主も、世界に誇るべき遺産を毀損した存在として認知されかねない、ということを伝えておきたい。