東京オリンピック・パラリンピック招致委員会事務総長 日本オリンピック委員会(JOC)理事 河野一郎(こうの・いちろう)

東京医科歯科大卒業後、筑波大学スポーツ医学教授に。1988年ソウル五輪から2008年北京五輪まで、日本選手団の本部ドクター、本部役員スタッフを歴任。


 

夢の五輪を東京に呼ぶため、世界を旅して回る。8月も数日しか日本にいなかった。招致活動の先頭に立つ河野一郎氏はつぶやく。「重要なのは人間関係。顔を合わせる回数を増やすことで信用を得ていくのです」。

投票権を持つ国際オリンピック委員会(IOC)委員は百人余におよぶ。1998年に発覚した五輪招致の買収スキャンダルを機に、招致活動の行動規範は厳しくなった。候補都市側のIOC委員への個別訪問は禁止された。

そこで河野氏らは、何とかIOC委員に接触しようと、国際イベントを飛び回ることになる。例えば、先の世界陸上開催のベルリンには50人を超すIOC委員が顔をそろえた。極力、食事を共にし、東京をアピールする。「東京は財政的にも運営的にも優れている。IOC個人の価値観に合わせ、メリットになることを訴えました」。ライバルがシカゴ、リオデジャネイロ、マドリード。決戦では過半数を獲得した都市が出るまで、最も得票数の少なかった都市を除外しながら投票をくり返す。「非常にユニークなレース。“敵をつくらない”のがひとつのキーワードです」。

河野氏の五輪への憧れは小学校のときに芽生えた。32年ロス五輪の水泳男子800mリレーの金メダリスト、豊田久吉氏が教諭だったからだ。そして高校3年のとき、64年東京五輪に接し、憧れがさらに膨らんだ。

日本スポーツ医科学の第一人者。卓越した調整能力と語学力ゆえ、スポーツ組織の中枢を歴任する。東京医科歯科大学在学中はラグビー部で活躍。日本ラグビー協会理事として先の2019年ラグビーW杯日本招致にも貢献した。

運命の投票は10月2日のIOC総会。ラグビーに例えると混戦模様か。「最後の最後に逆転します」。いざ逆転トライ!

(小倉和徳=撮影)