100%相手が悪くとも傾聴する

ここで大事な仮定として、「自分はまったく悪くはなく、上司が100パーセント悪いにもかかわらず厳しく叱責された」としましょう。

言うまでもなくあなたは怒り心頭で、とても仕事をする気になどなれません。転職を検討せざるを得ないほどです。

にもかかわらず私は、できるだけその上司の話に耳を貸す、つまり「傾聴する」のが消耗しないために欠かせないと考えます。

この種の「仕事術」は必ず批判されます。時に厳しく非難されます。

私はそれを承知しています。それだけに、少しでもマイルドに伝えられないかとあれこれ考えざるを得ません。

でも、自分に非はなく、相手が完全に「悪」であったとしても、やはり傾聴しなければ、あなたが消耗してしまうと私は経験から思うのです。

そもそも相手の話を十分に理解せずには、「自分にまったく非はない」と判断すらできません。「パワハラ上司」と決めつけてキツい話を聞き流しては、「自分にまったく非はなかった」との証拠すらも聞き逃してしまいます。

悪いのは完全に相手です。この前提は動かせません。

だから怒られるのは「理不尽」です。

しかし「理不尽な目にあう」のは悪いこととは言い切れないのです。

というのも「理不尽な目にあう」のは生きていればこそのことです。生きていればそんな目にもあいます。

"Active Listening"と書かれたメモ帳のページ
写真=iStock.com/ariya j
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すべて「生きていればこそのこと」

たとえば十分に授乳して、暖かくして、子守歌を歌ってあげたとしても、猛烈に眠い中、子どもは夜泣きします。

親は悪くはありません。責任は「問題を起こした子のほうにある」でしょう。

しかしだとしても、寝かしつけないわけにはいきません。このように理不尽に夜泣きされるのは、親子ともに「生きていればこそのこと」です。

いまの日本列島ではどこに住んでいても、今日にも大地震で家屋が倒壊するかもしれません。住んでいる人にはなんの責任もありません。悪いのは活断層です。

数千万円かけて建てた家を、地震に倒されるのは「理不尽の極み」です。

でもそれにしても「生きていればこそのこと」なのです。

理不尽な目にあうとは、生きているなによりの証拠なのです。