終戦後の昭和24年(1949年)頃から人気が高まり、全国に普及したパチンコ。1個ずつ込める手打ち式で、タバコやチョコ、調味料などの景品と交換できる「健全娯楽」を支えていたのは、パチンコ機の裏側で待機し、玉を補給していた“玉出し娘”や“裏回りの女”だった。当時の状況を詳しく調べたジャーナリストの溝上憲文さんがリポートする――。
1952年ごろのパチンコ店
1952年ごろのパチンコ店(写真=共同通信社『戦後20年写真集』より/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

パチンコ機の裏側に待機し、玉を補給した“玉出し娘”や“裏回りの女”

昭和の時代には多くの産業が誕生し、その中でさまざまな職業に従事する人たちがいた。しかし、時代の変化や技術革新によってスキルが不要になり、今では忘れ去られた職業もある。パチンコ産業もその一つである。

このほど筆者が上梓した『パチンコの歴史 庶民の娯楽に群がった警察と暴力団』(論創社)にも、そんな失われた仕事や職業が登場する。

パチンコは終戦後、庶民の娯楽として復活した。昭和24年(1949年)頃から人気が高まり、またたく間に全国に普及した。

当時のパチンコはわずか10mmの穴に玉を1個ずつ込めて手で弾く手打ち式だった。貸玉料金は1個2円。20円で10個(当時の小学校教員初任給は3991円:出典『値段史年表 明治・大正・昭和』)。

これを自分のペースに合わせて打ち、入賞すれば玉が10個いっぺんに飛び出してくる。玉込めの速度、弾き方など本人の技量しだいで入賞する確率も違うなどゲーム性に富んでいた。

現在と違い換金はなく、玉20個でタバコの「光」、25個で「ピース」のほか、チョコレートや調味料などの景品と交換できる健全娯楽の時代だった。

ただし、弾いた玉のアウト玉や入賞した玉の補給はすべて人力に頼っていた。そうしたパチンコ店の営業を支えたのは多くの女性たちだった。

貸し玉を売る、玉と景品を交換する仕事だけではなく、パチンコ機の裏側に待機し、玉を補給する仕事もしていた。彼女たちは“玉出し娘”、あるいは“裏回りの女”とも呼ばれた。

一人の女性が10台のパチンコ機を担当し、玉がなくなると急いで台の上のタンクに補給する。うっかりすると「オイ、玉が出ないぞー」と客が声を荒らげる。機械を手で叩いたり、足で蹴ったりする客もいれば、怒りだしてパチンコ玉を上から投げつける客もいたという。

営業中は持ち場を離れるわけにはいかない。向かい合わせのパチンコ台の間の人ひとりが通れるだけの細長いハコの中で彼女たちは1日を過ごした。

夏場ともなると、ハコの中は温度が上昇し、蒸し暑くなる。まだ20歳前の女性がスリップ姿に前掛けをしただけの格好で働くことを余儀なくされた。

閉店後は粉石けんを混ぜた熱湯で集めた玉を洗い、布で水を拭き取る。翌朝はふたたび手作業で玉を台に運ぶ。作業は朝の9時頃から深夜の11時まで昼夜別なく働いていた。

300台のパチンコ店には裏回りの女性従業員を含めて35人ほどが働いていた。当時を知る広島県のパチンコ店の経営者はこう述べている。

「女性従業員はシマの中に入れられて素足で板の上を走って、そして玉を入れる。夜になると肩がこってもう女の子は手も上がらんようになる。籠の鳥じゃないが、あの中に押し込めておいてね。損したお客に怒鳴られて、冷房のない時代に大変でした」

現代からは想像できないような過酷で劣悪な労働環境の中で働いていたのだ。

彼女たちは地方からやってきた者も多かった。ほとんど住み込みで、パチンコ店の2階や寮で寝泊まりしていた。

昭和30年(1955年)代に入ると地方から集団就職列車に揺られてパチンコ店に入る女性たちも多かったという。

しかし、昭和30年代後半にパチンコ玉の補給を自動化した完全自動補給装置が誕生し、裏回りの女性たちは過酷な仕事から解放された。そして全国に普及するのにともない、女性たちの姿はしだいに消えていった。