姫路城に次ぐ、壮観な建造物群

松山平野の中央に松山城はある。標高132メートルの勝山山頂に本丸があり、そこが城郭としての中枢に当たるが、山麓に展開する二の丸と三の丸が政務の中心だった。山頂部には天守を中心に、多くの櫓や門が建ち並んでいたが、往時のその景観は、紆余曲折を得ながらも、今日まで良好に伝えられている。

明治6年(1873)のいわゆる「廃城令」で松山城は廃城となり、大蔵省の所管になった。廃城になった城の多くで建造物等が競売にかけられ、かつての景観が短期間で失われたのに対し、松山城は本丸と二の丸が大蔵省から愛媛県に払い下げられ、その後、県が一括管理したため、多くの建造物が残された。

だが、昭和8年(1933)には放火で、本丸でもひときわ高い本壇(天守曲輪)に建つ連立天守群が、大天守を除いて焼失。その後、大天守をふくむ35棟が旧国宝に指定されたが、太平洋戦争の空襲でそのうち11棟が焼け落ちた。

それでも大天守は焼失を免れ、昭和43年(1968)以降、焼失した建造物も木造で次々と再建された。現在、重要文化財21棟をふくむ51棟が建ち並び、江戸時代に近い景観を目にすることができる。これだけ建造物が連なっている城は、世界遺産の姫路城を除けばほかにない。

また、山麓の二の丸も、多門櫓や門が再建されているほか庭園が整い、かつての御殿の間取りも植栽等で示されるなど、整備が行き届いている。

松山城天守
松山城天守(写真=Yamaguchi Yoshiaki/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

なぜ5重だった天守は3重に改築されたのか

築城に着手したのは、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功により、伊予(愛媛県)20万石をあたえられた加藤喜明で、約25年をかけて工事を進めたが、完成する直前に陸奥国会津(福島県西部)に移封になってしまった。

その後、寛永4年(1627)に蒲生忠知が入ったが、7年後に急死して蒲生家は断絶。寛永12年(1635)に徳川家康の甥である松平定行が15万石で入封し、以後、幕末まで15代にわたり、久松松平家が城主を務めた。

加藤喜明がいつ天守を建てたのか、正確なところは不明だが、慶長10年(1605)ごろには、すでに建っていたともいわれる。ところが、寛永16年(1639)に松平定行は、5重だった天守を3重に改築したと伝えられている。

ただし、この3重天守は天明4年(1784)、落雷を受けて焼失してしまった。残されているのは嘉永5年(1852)に再建されたもので、全国に現存する12の天守のなかではいちばんあたらしいが、外装などは創建時の意匠が踏襲されているという。

さて、5重の天守を構えることができたのは、将軍家とその縁戚など、原則として特別な大名にかぎられた。このため、松平定行が幕府に遠慮するあまり、3重に改築したという説があるが、別の説も伝えられる。築城工事がはじまる前、山頂部には谷や池があったというのである。