世の中におもしろい仕事なんてない

話を戻すと、わたしが働き始めた二十代のころなんて、もう苦役が十割でした。

二十代のころから有能で、あるいは上司にかわいがられて、会社権力に取り入って、おもしろいことばかり、自分の好きなジャンルばかりさせてもらってきた。そんなうまい話が、どこにあるんですか。あるわけないじゃないですか。

というより、おもしろい〈仕事〉が、世の中にあるわけがない。

身もふたもないんだけど、世の中におもしろい〈仕事〉なんかないです。そうではなくて、〈仕事〉をおもしろくする人間がいるだけなんです。

たとえば、マーク・トウェインの生み出した永遠少年トム・ソーヤーがそうじゃないですか。おばさんに言いつけられた、苦役であるペンキ塗りを、さも、おもしろそうにやっている。すると、悪童仲間たちが勘違いする。トムはみんなを巻き込んで、手伝わせてしまう。苦役のペンキ塗りに、順番待ちの列ができる。それはつまり、トムがおもしろがってるからなんです。

忘れもしない刑事部屋の前での逡巡

新聞記者として、わたしが最初になにをしていたかというと、警察回りです。最初の一日か二日、先輩記者と一緒に、赴任した川崎支局の管内に八つもあった警察署に行く。署長と副署長に紹介される。名刺を渡す。それだけ。で、三日目ぐらいから「(サツを)回っとけ」です。ほんとうにそれだけだったんです。

こっちは学校を出たてで、警察官に知り合いなんか一人もいない。というか、警察とはあまりお話ししたくないタイプの人間ですよ。それが、刑事部屋に飛び込んで、回っとけ。しかも、単に回るんじゃなくて、警察官と仲良くなって、なにか他社の知らない情報をつかんでこい、特ダネを書けって言われている。

最初に一人でサツ回りに放り出された朝のことです。川崎署の二階にあった刑事部屋前の廊下で、二、三分間でしょうか、ドアをノックするのをためらっていた。逡巡していたんです。ドアを、たたけなかった。あれは、永遠みたいに長く感じました。

意を決してドアをノックする。「おはようございます!」と元気よくあいさつする。刑事一課の刑事さんたちは、一瞬目を上げる。だれも、なにも、反応しない。席の近くにいけば「うるさいなあ、なにもないよ。副署長のとこにいけ」と邪険に追い払われる。

あのときわたしは、逡巡したけれど、結局、刑事部屋のドアをたたいた。家が貧しかったから。カネを稼がなければならなかったから。せっかくつかんだ〈仕事〉を、失いたくなかった。後ろに引けなかった。

でも、ドアをたたかないで支局へ戻る選択肢だって、あったと思う。支局長に怒られはするだろう。けれど、じきに「こいつは警察回りに向かないな」と判断されて、別の仕事(高校野球や市政担当や)に回される。そういうことだってあったろうと思います。じっさい、そんな記者もいるし。

もしもそうしたら、どうなっただろうか。いまの自分はあっただろうか。エレベーターで「おまえは、いいよなあ」と言われるようになっただろうか。

あくまでわたしの場合ですが、それはなかったと思います。ドアをたたけないで、刑事部屋の前に突っ立っていたあの二、三分を、忘れたことはありません。