親子2代で道長と共闘した
こうして、ついに道兼と道長のあたらしい派閥はメインストリームに躍り出た。道隆が死去して半月あまりの4月27日、道兼を関白にする詔が下り、同日、道長は左大将に昇進した。この時点では、道長は自分がまもなく政権のトップに躍り出るなど、予想もしていなかったことだろう。
ところが、5月2日、天皇に関白就任について御礼のあいさつを言上した道兼は、そのまま立てなくなり、わずか6日後の5月8日、死去してしまう。疫病の恐ろしさである。
道長が加冠の役を務めた元服式の直後、関白の長男となった兼隆は、以後、目覚ましい出世を遂げることが予想されたが、父の急死によって、輝かしい未来を断たれてしまう。
だが、道隆の遺児の伊周と隆家が道長に反抗し、自滅していったのとは対照的に、父の死後、兼隆は道長の側近として歩み、道長も道兼との約束にたがわないように、兼隆を後見し続けた。
時は下って寛仁元年(1017)、三条天皇の第一皇子で道長とは血縁関係にない敦明親王が皇太子を辞任し、その後を受けて、道長の外孫である敦良親王が皇太子になった。『大鏡』には、敦明親王が辞めたのは、兼隆にそそのかされたからだと書かれている。
史実と断定できる話ではないが、そういう話が書き残されるくらいだから、兼隆は道長との関係がずっと良好で、尽くしてきたのだろう。「派閥」は継承されたのである。そのなかで、息子もまた「汚れ役」を得意とした、ということかもしれない。