長兄・道隆に真っ向から反発する

むろん、これはドラマの筋書きで、史実を記したわけではない。けれども、栄華をきわめて、身内ばかりを抜擢するなど専横ぶりが目立つようになった道隆に対し、道兼や道長が反発し、対抗しようとしていた様子は、史料からも読みとれる。

月岡芳年画「花山寺の月」に描かれた道兼
月岡芳年画「花山寺の月」に描かれた道兼(画像=artelino/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

道長から見て行こう。前述のように、第16回で道長が道隆に疫病対策が必要だと願い出た際、道隆は内裏への相次ぐ放火のほうが一大事だといい、「帝と中宮様をねらったものであれば、中宮大夫のお前こそどうするつもりだ」と、逆に問い詰めた。

「中宮大夫」。道隆の長女で一条天皇の中宮になった定子のために、新たにもうけられた役所である中宮職の長官のことで、この職責を道長は負っていたのである。道隆にすれば、末弟の道長を定子に仕えさせ、抱き込もうとしたのかもしれない。

だが、道長は中宮大夫には就任しながら、兄には最初から露骨に反発した。定子が立后する日、つまり正式に中宮になる日は正暦元年(990)10月5日だったが、道長は中宮職の責任者でありながら儀式を欠席している。

中宮大夫に就任した道長について、『栄華物語』は「こはなぞ、あなすさまじと思いて、参りにだに参りつき給はぬほどの御心ざまも猛しかし(これはなんということだ、まったく心外だ、と思い、役所に寄りつきさえなさらないほど、ご気性が勇ましかったことだ)」と記している。

もっとも、『栄華物語』は、道長の栄華を記すのが目的の物語なので、必ずしも信用できない。だが、藤原実資も日記『小右記』に「大夫、重服に依り、見えず(中宮大夫の道長は喪に服しているのを理由に、出席しなかった)」と書いているから、道長が定子の晴れ舞台にあえて列席しなかったことはまちがいない。

道隆の長男に対し道長が行ったこと

第15回では、道隆が主催する弓競べの場で、道長が道隆の長男の伊周と競い合い、勝つ場面が描かれた。

正暦4年(993)3月に道隆邸で弓競べがあり、道長が的の中心を射抜いて景品を獲得したことは、『小右記』に記されている。また、『大鏡』にもそれと似た話として、道隆が自邸で弓競べを開催し、伊周を優勝させて箔をつけようとしたところが、道長が現れて伊周に勝ってしまった、という逸話が載っている。

『大鏡』の逸話については、創作だと考える学者も多いが、『小右記』の記述は、実際のできごとを描写していると考えられる。そこには、伊周と競ったとは描かれていないが、多くの人が列席する弓競べの場で、道長が景品を獲得したとは記されている。

列席者から見れば、道長は道隆の身内。集まった客に遠慮する立場なのに、多くの客を差し置いてみずから景品を手にしたわけで、背景には、道隆に反発する気持ちがあったと考えるほうが自然ではないだろうか。