藤原道長の兄・道隆はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「関白だった父・兼家の後を継ぎ、権力の頂点に立った。だが、早々に病死。強引な身内びいきの人事に対する反発もあって、一族は没落させられた」という――。
藤原道長の兄・道隆が行った強引な人事
藤原道長(柄本佑)の父で、年月を費やして虎視眈々と飛躍する機会をねらいながら、突破口をこじ開け、摂政、関白にまで上り詰めた藤原兼家(段田安則)が、62歳で死んだ。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第14回「星落ちてなお」(4月7日放送)。
兼家はまだ意志を示せるうちに、正妻に産ませた3人の息子、道隆(井浦新)、道兼(玉置玲央)、道長を呼びつけ、後継者は長男の道隆にする旨を告げた。
時は正暦元年(990)。ここから道隆を祖とする中関白家の絶頂期がはじまる。すでに第13回「進むべき道」(3月31日放送)で、長女の定子(高畑充希)を一条天皇(柊木陽太)に入内させていた道隆だが、第14回ではその定子を、前例を破って強引に「中宮」(天皇の正妻、皇后のこと)の座に据えてしまった。
当時の天皇には複数の妻がいたが、「女御」や「更衣」は側室で、国家が正妻であると認めた「中宮」とでは格段の差があった。天皇の妻が中宮になることを「立后」といい、当時の上級貴族は権力基盤を固めるために、入内した娘の「立后」を望んだ。
では、なぜ定子を中宮に据えるのが強引なことだったのか。第15回「おごれる者たち」(4月14日放送)でも解説はなかったので、少し説明したほうがいいだろう。
当時、后位には「皇后」「皇太后」「太皇太后」の3つがあり、「三后」と呼ばれた。単純にいうと、順に今上天皇の正妻、前の天皇の正妻、その前の天皇の正妻、ということになる。
ただし、天皇が代わると后が代わるという決まりはなく、基本的には亡くなるなどしないかぎり、空席が生じることはなかった。だから、この時点では一条天皇にはまだ正妻がいなかったが、先々代の天皇、円融院の后だった遵子が、まだ皇后の座にとどまっていて、三后に空席がなかったのである。