戦後の東京にそびえる城のような大豪邸
金とペテンの渦巻く風潮のなかで、アメリカ人二コラ・ザペッティはまさに水を得た魚だった。東京中をさがしても、彼ほどリッチな外国人はいなかった。未申告の収入を含めれば、かのブレークモア弁護士を久々にしのぐ羽振りのよさだ。
1964年10月には、新しいレストランをオープンした。しかもその直前には、店と同じく地代のバカ高い地所に、四寝室のあるコンクリート三階建ての豪邸を購入している。まるで城のような西洋風の家で、一段低い場所に暖炉があるし、グランドピアノ、プール、メイド、執事付きだ。敷地総面積はおよそ三百坪。車が優に二十台駐車できる車路の面積は、なかに含まれていない。
土地に飢えた東京で、これほどぜいたくな話はない。全室のインテリアを完成させるには、応接セット七組が必要だ。高価な絵や美術品の数々を、一財産かけて集めもした。
まもなく“予備”として、それより少し小ぶりの家を六本木に購入。鎌倉という由緒ある門前町にも、別荘を一軒、その近くの材木座という海沿いの町に一軒、さらにホノルルの浜辺にも一軒買った。最新式のヨットも手に入れた。車は数えきれないほど持っている。しかも毎年、新型に買い換えた。キャデラックの最新型を手に入れるには、輸入税と輸送費で、アメリカの小売価格の二倍にはねあがるが、値段などどうでもよかった。
法外な立ち退き料をせしめた「詐欺師の名案」
アメリカ大使にもひけをとらない豪勢な暮らしだ。
自分はビジネス手腕と“犯罪的策略”によって富を得たのだと、ザペッティは自慢してはばからない。
“犯罪的策略”の絶好のチャンスがめぐってきたのは、都庁の役人が彼のところにひょっこり現れたときだ。道路拡張のために、最初のレストランの敷地を譲ってほしい、移転にあたって店主がこうむる損害は、すべて都が負担するという。
そこで“天性の詐欺師”は、名案を思いついた。
まず、近所のナイトクラブのホステスたちを雇って、客足のとだえる昼間の時間帯に、店内の空テーブルをすべて埋めさせた。こうしておけば、調査にきた役人に、つねに満員盛況、という印象を与えるだろう。ホステスたちは毎日、テーブルで爪の手入れをしながら、道路公団の視察員が現れるのを待った。
数日後にようやくやってきた視察員は、案の定、店の繁盛ぶりに目を丸くし、立ち退き料として九千七百万円という金額をはじき出した。ザペッティが土地と建物代として支払った当初の金額を、二倍以上、上回る数字だ。
「きたないやり方だし、法律にも違反してるさ。だけどみんな似たようなセコいことをやってたんだ」