3月30日放送のドラマ「黄金の刻 服部金太郎物語」(テレビ朝日系)では、セイコーグループ創業者の服部金太郎の半生が描かれる。系図研究者の菊地浩之さんは「創業から150年近く、セイコーグループはいまだにオーナー企業体質であり、服部家が多くの自社株を所有している。この20年で金太郎の孫、ひ孫たちによるお家騒動も続いた」という―――。

「時計王」服部金太郎は古物商の子だった

ドラマ「黄金の刻 服部金太郎物語」(原作:楡周平『黄金の刻 小説 服部金太郎』)の主人公は、「時計王」とも呼ばれた服部金太郎(1860~1934)である。

服部金太郎氏の写真
服部金太郎(セイコーウオッチ/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

服部家は代々尾張藩(名古屋市)の武士だったと伝えられている。だが、いつの頃からか武士をやめて町人となり、名古屋で材木商を営んでいたという。そして、幕末になって、金太郎の父・服部喜三郎が江戸に出て尾張屋と称し、銀座京橋で古物商を始めた。一説には露天商ともいわれ、貧乏というほどではないが、裕福ではなかったらしい。

服部金太郎は喜三郎の一人息子として生まれ、13歳(数え年)の時に洋品雑貨問屋・辻屋に丁稚でっち奉公に出た。そして、なにげなく自分の将来を思い描いた時、辻屋の近くにある小林時計店が脳裏に浮かんだという。

「雨天の日には辻屋も小林時計店も同じように客足は少ない。そのような日に、辻屋で店番をしている店員たちが手持ち無沙汰なときでも、小林時計店では店員一同、せっせと時計の修繕に励んでいる。同じ物品販売業でも、時計業は販売によって利益を得るのみならず、修繕もして修繕料が得られる。大切な『時』を無為にすごさなくともよい」と、金太郎は時計屋を志した理由を述懐している。

セイコーの始まりは金太郎が始めた時計修理の店だった

そこで、1874年に金太郎は日本橋の亀田時計店、ついで1876年に黒門町の坂田時計店へ移り、修繕の技術を学び蓄財に励んだ。

ところが、1877年、坂田時計店が倒産したため、金太郎は18歳で自宅に戻り、服部時計修繕所の看板を掲げて中古時計の修理と販売を始め、その傍ら南伝馬町の桜井時計店や西黒門町の中山時計店に時計工として通って技術を磨いた。そして、開業資金150円がたまったので、1881年に京橋に服部時計店(現 セイコーホールディングス)を設立した。

創業当初は、舶来時計の輸入を主たる事業としていたが、その10年後には、日本で初の掛け時計の製造にも成功し、これを機に本所区石原(東京都墨田区)に「精工舎せいこうしゃ」という工場を設立した。

1890年代後半は、日本の時計メーカー、特に服部時計店と精工舎にとって大きく飛躍した時代だった。1894年に日清戦争が勃発し、国内の機械産業が盛んになると、精工舎はその波に乗って急拡大し、東京の時計生産の3分の1強を占めるまでに急成長した。

服部家・直系の家系図
画像=筆者作成
服部家・直系の家系図 ※①~⑩は社長に就任した順番