事業が軌道に乗り、生まれ育った銀座の町に時計塔を建てた
1894年、服部金太郎は都心の一等地、銀座四丁目の角地にあった旧朝野新聞社の社屋を購入した。そして、屋上に時計台を持つ近代的なビルを完成させ、服部時計店の本社を移して営業を始めた。
しかし、精工舎の技術を世に知らしめる広告塔でもあったこの初代時計塔は、1923年(大正12年)に起こった関東大震災によって倒壊してしまう。その後、1932年、同じ場所に服部時計店が再建され、現在、銀座のシンボルとして親しまれている時計塔となった。ゴジラ映画によく出てくるあの和光本店(服部時計店の小売部門から設立、現 セイコーハウス銀座)である。
未曽有の震災で金太郎は銀座の社屋や工場や自宅、そして顧客から預かっていた修理中の時計などを失った。築き上げてきたものの大部分を失い、一度は落胆したが、すぐさま精工舎の復興に着手。翌年3月には柱時計の、12月には腕時計の出荷を再開した。さらに、1925年(大正14年)には難しいとされていた腕時計の量産化にも成功した。
第一次世界戦時、イギリスやフランスから大量発注
一方、精工舎では製造品目を広げ、1895年に懐中時計、1913年に腕時計の製造を始めた。そして、1907年に服部時計店・精工舎製の懐中時計「エキセント」は、宮内庁の指定を受けて恩賜の時計に選ばれる栄誉を得た。「恩賜の時計」とは帝国大学や陸軍大学、海軍大学、学習院で優秀な成績で卒業する者に与えられる時計で、優れた時計と言えば海外製品が当たり前だった時代に、日本製の時計が公に認められた瞬間だった。
自信を深めた服部金太郎は清国(現 中国)へ時計の輸出を始め、1910年頃には上海の市場を独占するまでに成長した。第一次世界大戦が勃発すると、戦場となったヨーロッパから服部時計店に精工舎製の時計の注文が大量に寄せられた。イギリスから目覚まし時計約60万個、フランスから小型目覚まし時計約30万個という、当時としては驚異的な大量発注だったという。