意外と病弱だった道長

もう一つ、これまた、今井氏の『人物叢書紫式部』に詳しく書かれていることですが、道長の健康状態はあまり良くなかった、という事実を付け加えておきます。

藤原道長といえば、つぎの歌が有名です。

この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば

「この世は自分のものと思っている」などと歌に残した道長は、権力欲が強く、妻と愛人が何人もいましたので、精力がみなぎっている人物に思えますが、じつは意外と病弱だったみたいです。

長徳4(998)年、道長が33歳のときに大病を患い、死を覚悟したのか、帝に出家を願いでたことがありました。このときは無事に治りましたが、その後も、たびたび体調を崩すことがあったのです。

とくに道長が紫式部と歌のやりとりをした、といわれる寛弘5年の夏は、病気のために参内もしていません。

また、道長が著わした『御堂関白記』によれば、風病(風邪など)の記述も多く、50歳のときには「糖尿病」と疑われるような症状も出ていたようです。

紫式部と道長の本当の関係

以上のように見てきますと、

「紫式部と道長の間に、恋愛関係はなかった」

岳真也『紫式部の言い分』(ワニブックスPLUS新書)
岳真也『紫式部の言い分』(ワニブックスPLUS新書)

それどころか、相聞歌めいた歌の交換も、ふたりのものではなかったのではないか、とすら思われます。

にもかかわらず、紫式部と道長のふたりを強引にむすびつけてしまう小説が最近、多く出まわっています。

知己の作家もいますし、ここでは書名と著者の名は出しませんが、いずれの内容も、ふたりは恋仲となり、式部は道長の愛人となる、というものです。なかには、ふたりの間には子どもも産まれ、紫式部が育てるなどという、とんでもない小説までが出版されています。

本書には、嘘偽りは書きません。道長は紫式部の良きパトロンであり、心と心の通いあう「ソウルメイト」だったのです。

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