いったい誰が戸を叩いたのか

ただし、紫式部は分別盛りの30代後半(今日だと、50歳)、道長は40半ば(60すぎ)で、初老の身。もしや何らかの関係があったとしたら、まさに「老いらくの恋」ということになりましょう。

今井源衛氏は『人物叢書紫式部』(吉川弘文館)のなかで、こんなふうに書いています。

「……左大臣ともあろう者が、事前に何の手も打たず、前ぶれもなしに、いきなり夏の夜中にのこのこと女房の局の戸を叩きに出かけて、開けてももらえずすごすごと引き揚げるとは、何という醜態か。道長としては、出来が悪過ぎるのである」

いずれ、『源氏物語』と作者の紫式部があまりにも有名になったために、これらの歌の交換について、後世の人びとは、さまざまな解釈をしてきました。

今井氏は「日記にも家集にも相手が誰とはいっていない」のに、「藤原定家の撰した『新勅撰集』には道長だとある」と指摘。

根拠のない俗説をもとに、定家は「道長だ」と書き、さらにそれをもとにして、中世の『尊卑分脈』などの文書類が出現したのではないか、と説いています。

畳の上に置かれた巻物
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史料に書かれた「紫式部=愛人」

『尊卑分脈』というのは、南北朝時代に編纂された諸家の系図の集大成ですが、そのなかで、紫式部の注に「御堂関白道長公妾云々」と記されていました。「妾」はいわゆる愛人(側室)ということで、最後の「云々」は「~と言われている」という意味です。

「それでは、やはり、道長の愛人だったというのは本当ではないか」と思われる方もあるかもしれません。が、これがおそらく定家の残した言葉の影響下にあること、くわえて「云々」と付けられていることに注目してください。

要するに「聞き書き」ということで、道長の系図中に「紫式部」の名があったとしても、事実かどうかは判ぜられない、ということです。

編纂者が、「紫式部は有名人だし、たしか道長公に雇われていたはず。それに艶っぽい歌も残っているし、『妾』というかたちで入れておこうか」などと考えたかもれません。

西暦1376年に成立したといわれる『尊卑分脈』ですが、源氏、平氏、藤原氏などの主要な系図集なので、たいそう貴重な史料と見なされています。けれど間違いも多く、とくに伝聞の記述については、かなり疑わしいようです。

角田文衛氏も、「一瞥したところでは、なんの不思議もない系図であるけれども、よく検討してみると(中略)、錯簡とも言うべき重大な誤写がそこに認められる」(『紫式部とその時代』角川書店)としています。

また、『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・伊井春樹氏も、その辺のことを語り、「……これだけの記述から先を読み取るのは不可能と言うほかはない」と結論づけていますし、例の『尊卑分脈』に関しても、ただの歌のやりとりからの「類推による」もので、取るに足らない、と見なしています。