五木寛之がテレビの紀行番組で訪れた寺院をまとめた『百寺巡礼』もまた新しいものの見方に出合うことができる。五木寛之は、情念の世界からお寺を見ているようだ。京都大原にある三千院について、「もし仮に京都に光と影があるならば、大原は京都の影の部分だという気がする」などという見方をする。
光は、物質の姿を明確にする。それに対して、影はすべてを呑み込むわけだから、影の中にはすべてがある。この本を読んで谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を思い浮かべる人がいるかもしれない。「こういう見方ができるのか」と1人悦に入りながら、寺を訪れるのだ。
ただ、いま挙げた本はやはり活字の世界。想像をかき立てるという意味では面白いが、写真集である土門の『古寺を訪ねて』には、さらにすごみが感じられる。
本書は土門が何を意識して撮影しているか、当然作品として表現されていることはわかっても、その写真の撮り方を我々が真似ようとしてもできないと思う。
例えば、奈良・法隆寺中門の礎石だけを撮った写真がある。この写真の特徴は、部分を強調して、全体を表現していること。これは誰にでも理解できるはずだ。だが、土門がその部分を全体に結び付ける方法を考えるにつけ、「なるほどこの部分をちょっと意識するだけで、全体の見え方や“ものの見方”はここまで変わってしまうんだな」と感じる。被写体の本質をえぐり出す方法に関しても、いつ見ても、どれを見ても感心する。「透き通った花弁の中で息吹が見える心が見える」という文章そのままの写真を土門は撮っているのだ。
土門が写しているものの多くは、建築物や彫刻、仏像など、人間がつくったものだ。しかし同時に、作品の至るところで自然が写しだされている。そんな自然と人工物の調和に着目して読み返してみるのも私が発見した本書の醍醐味だ。