日本が国際社会で主導権を握れない理由

コンセンサスという概念も、日本独特のとらえ方をしています。コンセンサスというのは、自然に形成されるものではなく、強力なリーダーシップが引っ張って初めて、形になるものなのです。日本の教育は、平均点がきわめて高い人材群をつくり出します。均等に質が高い。ですが、そこに重きを置きすぎていて、リーダーシップの育成には不向きだ、という印象を持っています。

国際社会で、決まったことを実施する力において群を抜く日本が、なかなか主導権を握れず何となくもたもたした国だと見られるのは、この辺りに起因していると感じられます。

渋谷のスクランブル交差点を横断する人々
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国内基準と国際基準を別のものと考えるのも日本の特徴です。各都道府県が持つ緊急時の備蓄食糧を海外の災害現場や難民発生地に提供することができません。国際緊急援助隊が、阪神・淡路大震災のときに訓練という名目でしか出動できませんでした。

欧米の人間は、自分たちのスタンダード(標準)がそのまま国の内外で通用すると信じています。ですから臆することなく、その標準を国際社会で主張するのです。

「国際貢献」という言葉に潜む思い込み

国内用と国外用の二種類の制度をつくり、ことさらに「国際貢献」という発想をするのも、日本人が「内」と「外」は違うと思い込んでいるからでしょう。内と外を隔てる制度を取り除けば、国内の取り組みはそのまま世界で十分通用するのです。

私はよく「国内・国外一元化」という言葉を使いますが、この一元化なしに国際化もないし、国際貢献も難しいと思っています。ここにも、同じ言語を話し、島国に住んでいる、という「不幸な」環境がからんでいます。社会というのは均質である必要はないのです。

私は高等弁務官に就任するにあたって、日本には人道大国になってもらいたい、という期待を表明しました。いま、キーワードは「ソリダリティー(連帯)」だと思っています。遠い国の人びとに対して連帯感が持てるかどうかが鍵です。