ハマス指導者を殺害する一方、ガザ地区から撤兵

この時にはランティシは辛くも生き延び、ただちに自爆攻撃による報復が行われたが、シャロンはあきらめなかった。2004年3月22日、早朝の礼拝を終えて車椅子でモスクから出たヤシン師と彼の護衛二人が、イスラエル軍ヘリのミサイル攻撃を受けて即死し、4月17日には、再度標的となったナンバー2のランティシも殺害された。

こうした暗殺行動と並行して、シャロンは2004年6月6日に閣僚を召集し、ガザ地区全域と西岸地区の4カ所からユダヤ人入植地を撤去するとの方針を伝えた。シャロンはそれまで、対アラブ強硬派のシンボル的存在と見なされていたため、パレスチナ側への譲歩とも受け取れるこの政策変更は、リクード党内部でも激しい非難に晒された。

だが、シャロンはイスラエルの存続にはガザ地区の放棄もやむを得ないとの考えから、ガザ地区全体の5分の1を占めるユダヤ人入植地と、同地に駐留するイスラエル軍の撤退を強行し、2005年9月12日には、ガザ地区のユダヤ人は完全に姿を消した。

「二つの国家の共存」とは正反対の方向へ

ガザ地区からの撤退完了から2カ月後の11月21日、シャロンは入植地の撤退策への反対論が根強いリクード党党首を辞任して同党を脱退し、翌22日に新たな政党「カディマ(前進)」の設立を発表、自ら党首に就任した。11月28日、シャロンはカディマの基本政策を、次のように説明した。

「イスラエルは、パレスチナ人に領土面で譲歩し、長い対立の時代に終止符を打ち、ユダヤとアラブという二つの民族の二つの国家が共存する形を実現すべきである」

山崎雅弘『新版 中東戦争前史』(朝日文庫)
山崎雅弘『新版 中東戦争前史』(朝日文庫)

イスラエル軍人として祖国防衛に生涯を捧げたシャロン(第九章を参照)は、凶弾に倒れたラビン同様、武力だけでは永遠にイスラエルの平和を実現できないことを悟り、対話と相互譲歩によって問題の解決を図ることに最後の望みを託した。

だが、それから44日後の2006年1月4日、シャロンは突然重度の脳卒中で倒れ、意識不明の重体となってしまう。

そして、ガザ地区をめぐる状況は、対話と相互譲歩による問題解決というシャロンの思惑とは正反対の方向へと急展開していくことになる。

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