精神的な拠り所となったのはハマスだった
職のないパレスチナの若者は、屈辱と不条理への憤りを胸に秘めながら、彼らが「自分たちの土地」と見なす場所に入り込んできたユダヤ人入植者の家を建てる建設工事に、作業員として従事せざるを得ない状況へと追いやられた。
1987年の「インティファーダ」発生の背景には、こうしたガザのパレスチナ住民の間で鬱積した不満と怒りのマグマが存在していた。その後、1993年の「オスロ合意」と1995年の「オスロ・ツー」(第九章を参照)により、ガザをめぐる情勢は改善の兆しを見せたが、翌1996年に第一次ネタニヤフ政権が発足すると、イスラエルの政策は再び、パレスチナに対して非宥和的な方向へとシフトしていった。
そんなガザ地区において、貧困と絶望の中で日々を暮らす人々の支持を集め、精神的な拠り所となっていたのが、アハメド・ヤシン師を指導者とする「ハマス」だった。
第九章で述べた通り、ハマスが創設されたのは、ガザでインティファーダが起こった直後の1987年12月14日だった。この時点で、ガザ地区には95万人のパレスチナ人が住んでいたが、その約半数に当たる45万人は難民として流入した人口だった。
イスラエルは「ハマス殲滅作戦」を開始
2001年2月の首相公選で、シャロンがイスラエル史上最大の得票率(62.6パーセント)を得て大勝利を収めると、彼はハマスに対して徹底的な殲滅作戦を開始した。その中でも、国際社会でとりわけ大きな非難を浴びたのが、ハマスの幹部を狙い撃ちにして次々と殺害する「ターゲッテッド・キリング(標的殺害)」と呼ばれる作戦だった。
最初のうち、イスラエル軍の標的(ターゲット)となったのは、自爆攻撃を計画・準備する現場レベルのハマス幹部だけだった。だが、この手法では一向に埒があかないと判断したシャロンは、ハマスの最高幹部をも標的にすることを許可し、2003年6月10日にハマスのナンバー2であるアブドゥル・アジズ・アル・ランティシの自動車に対して、イスラエル軍のヘリコプターがミサイルを発射するという事件が発生した。