ナチス・ドイツはなぜユダヤ人の大量虐殺に手を染めたのか。戦史・紛争史研究家の山崎雅弘さんは「当初のゴールはドイツ支配圏外への強制追放だったが、戦争序盤の連勝で支配地域のユダヤ人が増え続けた反面、追放先が失われ、『絶滅させるしかない』という結論に至った」という――。

※本稿は、山崎雅弘『第二次世界大戦の発火点 独ソ対ポーランドの死闘』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。

アウシュビッツ強制収容所
写真=iStock.com/Oliver Chan
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ゴールはユダヤ人の「強制追放」だった

第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行った、ユダヤ人の大量虐殺(いわゆるホロコースト)は、人類史上の汚点として歴史に特筆されているが、ヒトラーに従うナチス親衛隊による組織的なユダヤ人虐殺の多くは、旧ポーランド領内において実行された。

だが、1939年秋にポーランド西部を征服した時点では、ヒトラーとナチス親衛隊はユダヤ人大量虐殺に関して、具体的な計画を特に用意していなかった。

ナチス親衛隊は、ポーランドに侵攻したドイツ軍の背後に特別行動部隊を送り、治安維持の名目で約7000人のユダヤ人市民を殺害したが、この時点ではまだ、ドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の全体的な解決法は、「ドイツ支配圏外への移住(強制追放)」が基本方針とされていたからである。

この方針に従い、まず進められたのが、占領地におけるユダヤ人の「隔離」だった。

石壁で囲まれた「ゲットー」に隔離

いまだポーランド中部では戦いが続いていた1939年9月21日、親衛隊保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは、ドイツ軍が占領したポーランド農村部のユダヤ人を大都市に集めよとの命令を下すのと共に、総督府領のクラクフ東方にユダヤ人居留地を建設する計画草案を部下に作成させた。

こうして誕生したのが、ユダヤ人を強制的に収容する居住区「ゲットー」だった。

ゲットーとは、中世のヴェネツィアで最初に作られたユダヤ人の隔離居住区のことで、その後ヨーロッパの各都市で同様のゲットーが作られ、独自の宗教と生活習慣を守るユダヤ人を市内の狭い一角に隔離した。石壁で囲まれたゲットーの中で、ユダヤ人は自治権を付与されたが、外部に出る際にはユダヤ人とわかる印を着用するよう強制された。

10月8日、総督府領内に最初のゲットーが作られ、11月23日には旧ポーランド領に住む10歳以上のユダヤ人は、ユダヤ人のシンボルである「ダビデの星(二つの三角を上下反対にして重ねたもの)」が入った腕章の着用を義務づけられた。

また、ナチス・ドイツは、独自の文化と生活習慣を持つ少数民族のシンティ・ロマ(かつては差別的意味を込めて「ジプシー」と呼ばれた)も迫害し、1935年から国内で差別と迫害の対象としていた。ポーランドでも、シンティ・ロマはユダヤ人と同様に、ドイツの統治当局による迫害の対象となり、自由と権利を奪われていった。