「絶滅収容所」が各地に建設されていった

1941年9月18日、ヒムラーはヴァルテガウのヘウムノに、ユダヤ人の大量殺害を目的とする最初の「絶滅収容所(フェアニヒトゥングスラーゲル)」を建設する決定を下した。ヘウムノ絶滅収容所は、同年12月9日に稼働を開始し、1943年3月にいったん閉鎖されるまでの期間に、14万5000人以上のユダヤ人を殺害した。

同様の絶滅収容所は、総督府領内でも建設が検討され、ヒムラーは1941年10月13日、総督府領内で最初(全体ではヘウムノに続き二番目)の絶滅収容所をルブリン南東のベウジェツに建設するよう命じた。この新たな絶滅収容所は、排気ガスのトラックではなく、敷地内の特殊な建物で毒ガスを用いてユダヤ人を「効率的」に殺害する施設とされ、1942年3月17日に最初のユダヤ人殺害行程が実行された。

ベウジェツに続いて、総督府領内のソビブルとトレブリンカでも絶滅収容所の建設が進められ、前者は1942年5月、後者は同年7月にガス室による大量殺害を開始した。

アウシュヴィッツで大量虐殺システムが完成

旧ポーランド領内には、第二次世界大戦中に計6カ所の絶滅収容所が建設されたが、その中でも国際的に有名なのは、アウシュヴィッツに作られた複合施設である(残る1カ所は総督府領のルブリン近郊に作られたマイダネク強制収容所)。

アウシュビッツ強制収容所
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ドイツのオーバーシュレージェン県に併合された、旧ポーランド南西部にあるアウシュヴィッツの絶滅収容所は、最初に作られた「第一」と、後に近隣で拡張された「第二」から成り、後者は「ビルケナウ」とも呼ばれた。

山崎雅弘『第二次世界大戦の発火点 独ソ対ポーランドの死闘』(朝日文庫)
山崎雅弘『第二次世界大戦の発火点 独ソ対ポーランドの死闘』(朝日文庫)

旧ポーランド軍の兵営を強制収容所に転用したアウシュヴィッツ第一絶滅収容所では、1941年9月3日から殺虫剤「チクロンB」を用いた収容者(ポーランド人とソ連兵捕虜)の殺害が実験的に開始されていたが、ナチスのユダヤ人政策の転換に伴い、ユダヤ人の絶滅収容所として施設が拡張された。

1942年2月、アウシュヴィッツ第一収容所に隣接する焼却炉の死体置き場が、同地で最初のガス室に改造され、チクロンBによる大量殺害が可能であることが確認された。

第一の拡張施設として、同地から約3キロ北西に建設されたアウシュヴィッツ第二(ビルケナウ)収容所でも、1942年3月からガス室によるユダヤ人殺害が行われ、1943年3月にはガス室と死体焼却炉を組み合わせた大量虐殺のシステムが本格的に稼働した。