過去には嫌な記憶が無数にある

また、自分の子供が小さかった頃の思い出にも、強い懐かしさを覚えます。

私は29歳で妻と米国に渡り、ニューヨーク州の田舎町バッファローに9年間いました。その間に、子供は四人になりました。

米国では、秋にフェアーというお祭りをやります。自宅から車で3時間もかかる州都アルバニーで開かれるタウンフェアーを、妻と子供、渡米して家事を助けてもらっていた両親と見に行った思い出は、忘れることができません。

日没の遊園地と観覧車
写真=iStock.com/Clayton Piatt
※写真はイメージです

私の長男は明浩あきひろという名で、米国では「アキ」と呼ばれ、私と一緒にいる時には、「アキ・ジュニア」と呼ばれていました。10歳まで米国で育ったので、帰国すると文化の違いのために、いじめにあったりして苦労したようです。

ある時、私が彼を「あきひろ」と呼ぶと、「アキと呼んで」と言うのです。聞いていた妻はこう言いました。

「明浩は米国の楽しかった生活を思い出しては自分を励ましていたのね。『アキと呼んで』と言うのも、当時をよみがえらせたいからかもしれませんね」

私もその通りだと感じました。

一方で、私は、多くの思い出は心を苦しめるものだと考えています。

過去には嫌な記憶が無数にあります。思い出して不愉快になったり、「なぜ自分はあんなことをしたのか」と自己批判したりすることも多いのです。

志賀直哉「今の記憶がなければもう一度生まれてもよい」

思い出すことの9割は嫌なことだというのが実際ではないでしょうか。楽しい記憶は、現世の競争、憎悪、嫉妬などから離れたものに限定されるのです。

小説家の志賀直哉しがなおやも、「もう一度、生まれたいか」と聞かれ、「今の記憶がなければ生まれてもよい。だが、今の記憶があるなら嫌だ」と言ったそうです。苦々しい過去がたくさんあったのでしょう。

「人間にとって最も大切なものは思い出ではないか」と言う方も多くいます。

しかし、私はそう思いません。楽しい思い出にふけるのもたまにはいいでしょうが、むしろ、嫌な記憶を思い出さないようにするほうが、過去とのいいつき合い方になると考えています。

あれこれ思い出しすぎないのが、過去とのいいつき合い方。

喜ばしい思い出は記憶の1割以下なのです。