生活保護29万円のシングルマザーが叩かれる世の中
2013年に、とある生活保護家庭の家計についての記事が朝日新聞に出た。「貧困となりあわせ」という見出しの記事で、家計はこう紹介されている。41歳の母が14歳の長女と11歳の長男を育てる母子家庭。受給している生活保護の額は毎月29万円。その使い道の内訳も掲載されており、習い事などの娯楽費に4万円、衣類代に2万円、携帯電話代に2万6000円、固定電話代に2000円。
この記事がネットに出まわると、批判が殺到した。「私の給料より多い」「なんで毎月2万円も服が買えるんだ」などの声がたくさん聞かれた。
それぞれの家庭にはさまざまな事情があり、この家のお金の使い道が妥当かどうかは簡単に決めつけられることではない。しかし、この炎上ケースから見えてくるのは、「生活保護の母子家庭=弱者」「会社員=強者」という20世紀的な構図が崩れてきており、ブラック労働で給与も減っている一般労働者のほうが、生活保護家庭よりも悲惨な生活を強いられていることだってある、ということだ。
2021年、車椅子の女性がJRの無人駅に行こうとしたところ、JRから「乗車拒否」にあったとブログで訴えたことがあった。バリアフリーな社会を目指すのは当然だし、車椅子の女性が弱者であるのは間違いない。しかし彼女のブログは、JRの駅員にかなり強硬な調子で対応を求めているように受けとれ、またマスコミの力を借りてJRを糾弾する対応を用意していることも書かれていた。この結果、ブログは炎上して彼女は批判を浴びることになった。
車椅子の女性と、巨大企業のJRをくらべれば、女性のほうが弱者であるのは間違いない。しかしインターネットでの反応を見ていると、「巨大企業のJR」というよりも実際に鉄道の仕事にたずさわっている駅員さんに同情する声が目立っていた。「エッセンシャルワーカーとしてたいへんな労働を強いられている駅員さんと、マスコミをバックに駅員さんを強く叱りつける女性」という構図になっていたのである。
マスコミは「新しい弱者」に目配りできていない
すべての無人駅にエレベーターを設置するなどの対応をJRは求められるが、それを決定するのは経営者や役員であって、末端の駅員さんたちではない。JRは強者だが、駅員さんたちは強者ではなく、乗客からのいわれなき非難や暴力にも日々さらされて苦労している弱者なのである。
このように弱者か強者かというのは、その都度の場面によって、関係によって、コロコロと変わる。
だから大切なのは「弱者だから大切にせよ」「強者だから非難されて当然」と最初から決めつけてしまうことではない。弱者と強者が混じり合って存在し、つねに立場が入れ替わってしまうような社会で、その都度バランス良く「何が公正か」を判断していくことなのである。
「こぼれ落ちている弱者はいないか」「弱者が転じて強者となって、逆に抑圧を生んでいないか」ということを、わたしたちはつねに振り返り続けなければならないのだ。
しかし20世紀の価値観から抜け出せない新聞やテレビ、そして一部の社会運動は、いまも「絶対的な弱者」観に頼り、「新しい弱者」に目配りできないままでいる。社会に対する観察の射程があまりにも短すぎるのではないか。