※本稿は、佐々木俊尚『この国を蝕む「神話」解体』(徳間書店)の一部を再編集したものです。
「監視社会は危険」と声高に主張するマスコミ
マイナンバーカードや監視カメラ、特定秘密保護法など、ちょっとでもプライバシーに触れるような技術や法整備の話が出るたびに、マスコミは「監視社会は危険」論を声高に言い出す。
「個人情報が政府に筒抜けになって危険だ!」
「国民は監視されていることを恐れて自主規制し、自由がなくなる」
「プライバシーが政府にばれたら、反権力だと思われて圧力をかけられるかも」
念のために言っておくが、そういう懸念はけっして「ゼロ」ではない。たとえばアメリカでは、エドワード・スノーデンが暴露したことで有名な「プリズム」というインターネットの監視システムや、世界中の無線通信を傍受している「エシュロン」というシステムがある。日本でも、公安警察や公安調査庁が監視対象の人物の個人情報を収集している。
しかしだからといって、政府や企業が個人情報を取得することを全部一緒くたにして「監視社会だ!」と叫ぶというのは、あまりにステレオタイプである。わたしたちはそういう古くさい批判から脱却して、バランス感覚のある考え方を持たなければならない。
では、どのようなバランス感覚が必要なのだろうか。論点として以下の三つを挙げよう。
第二に、監視することが、公正さを保つ助けにもなる。
第三に、監視することが、テクノロジーを後押しすることもある。
以下、三点それぞれについて見ていこう。
マイナンバーは「監視社会につながる」は誤り
まず、第一の「平等な社会」について。
題材にするのはマイナンバーである。ポイントの大盤振る舞いなど政府の必死のキャンペーンによって、いまようやく普及してきたマイナンバーカードは、「監視社会反対」の人々から目の敵にされている。しかし歴史を振り返ってみれば、マイナンバーやマイナンバーカードへのそういう批判は実に的外れであることがわかる。
掘り起こしてみよう。マイナンバーのように国民全員に識別番号を持たせるという構想は、実はものすごく歴史が古い。いまから半世紀以上も前、1960年代の終わりにまでさかのぼるのだ。当時の佐藤栄作政権が検討したのが最初である。「統一個人コード」と呼ばれたこの識別番号の目的は、ただひとつだった。それは「株式や預金の利子などで得た収入を税務署が把握するため」である。