どうみても、系図が合いません。さすがにこればかりは、『日本書紀』の系図は間違いだと言い出す愚かな学者がいないところが、古代史学者の良識でしょう。近代史だとそのレベルのやらかしが日常ですから。
ただ、雄略天皇が「武」に当たるのは間違いないとして、逆算してその前の時代を考察しているのです。
たとえば、江戸時代前期の国学者である松下見林は、讃は履中天皇のことだ。理由は本名のイサホワケの「サ」を「讃」と記したに違いないと主張していました(『異称日本伝』一六八三年)。
明治大正の歴史学者の吉田東伍は、讃は仁徳天皇のことだ。理由は本名のオホササギの「サ」を「讃」と記したに違いないと主張していました(『日韓古史断』冨山房、一八九三年)。
「倭王武=雄略天皇」と言われているけど…
一事が万事続きますので、これくらいで。別にふざけてこじつけている訳ではありません。特に吉田さんは超真面目な歴史学者で、この本の続編があったら特筆大書したいくらいの真人間です。こういう仮説を積み重ねていくしかないのが、古代史なのです。詳細はバカバカしいので、省略。専門家にお任せします。
では、中国の史書絶対視の歴史観が完全否定する、『日本書紀』ではどう書かれているでしょうか。讃・珍・済・興・武のいわゆる「倭の五王」にあてはまると考えられている第十五代応神天皇から第二十一代雄略天皇までの記述です。人によりずれるので、候補は七人になります。
仁徳天皇=民の竈はあっさり。浮気話を特筆大書。
履中天皇=弟が皇后予定者を強姦、兄弟で争乱に。
反正天皇=兄の履中天皇に忠誠を尽くして兄弟継承。世渡り上手。
允恭天皇=皇后の妊娠中も浮気をやめず。皇太子が実妹と近親相姦で大問題に。
安康天皇=勘違いで旦那を殺し、人妻を我が物に。その息子に殺される。
雄略天皇=趣味が殺戮としか思えない天皇だった。
特に、第二十一代雄略天皇は超狂暴な天皇として描かれます。雄略天皇が大粛清をして次から次へとライバルになりそうな皇族を殺したので、仁徳天皇の子孫はほぼ途絶えたと考えられます。
本当でないなら、何のためにこんな話を書くのでしょうか。
「わからない」に向き合う態度が欠けている
別に『日本書紀』と中国の史書、どちらかが百パーセント信用できて、もう一方を無視して良いなどとは言っていません。
本当の事は「わからない」に向き合う態度が必要なのではないか、と言っているだけです。これは日本古代史だけではなく、すべての歴史学者のあるべき態度でしょうし、歴史学以外のいろんなことでも大事な心構えだと思っています。