求められたのは「真偽」ではなく「リアルさ」

この謎を解き明かすうえでヒントになるのが、かつて日本で一大現象を引き起こした『電車男』です。匿名掲示板の2ちゃんねるの無名の語り手の書き込みから始まった実話とされるラブ・ロマンスですが、それがあたかも現実にあった出来事のように受け止められた。「電車男」というのは、匿名掲示板のポスト・トゥルースの代表例だと私は思っています。というのも、冷静に読んでみれば、あんなに出来過ぎた安っぽい話は嘘に決まっているからです。

それにもかかわらず書籍は100万部を超えるベストセラーとなり、映画、テレビ番組になって社会現象になった。決して虚構とは受け取られることはなかった。いったい、なぜなのか。

その大きな要因は「匿名だったから」だと私は考えています。実名で書いてしまうと、その物語が嘘かどうかは簡単に照合され、問い詰められてしまいますが、匿名ならバレようがないし、今でも真相は謎のままです。

嘘が嘘とバレないことによって、あの感動の物語が成立しているわけで、これが匿名であることの、非常に大きな機能なのではないかと思っています。嘘か本当か確かめようがないから、「嘘だったとしてもいい」「嘘だったとしても感動できるからいいじゃないか」といった意見が主流になった。かつて日本の代表的エンタメ小説家である重松清は「嘘か本当かではなく、求められているのは『リアルさ』ではないか」(朝日新聞、2005年4月17日)と『電車男』を高く評しましたが、まさにポスト・トゥルースとはこの虚構であってもいいという「リアル」が求められているものだと思うのです。

抽象的な不在のコンセプト
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「匿名であること」がカギだった

嘘に嘘を重ねていたにもかかわらず、Qアノンがこれだけの破壊的影響力を持ってしまっていたのも、同じ理由です。「リアル」だったからです。

彼らが唱える陰謀論は、いわゆるユダヤ陰謀論の「血の中傷」のバリエーションであり、その話を信じたい人々が共鳴していた。だから極論を言えば、事実でも嘘でもどっちでもよく、ただ「リアル」でさえすればよかった。

だから、匿名の書き手「Q」とは誰か? が明らかになると、効力を失ってしまう。最近になってQが復活して書き込みをしたところ、信者はほとんど反応しなかったんです。おそらくQの正体について「8chan」運営者のジム・ワトキンス(現在の日本の匿名掲示板「5ちゃんねる」の経営者)なのではないかという説が出るなど、その匿名性に揺らぎが生じたことが影響しているのだと思います。真偽がある特定の人に紐づいてしまい、「嘘か真実かはどちらでもいい」というリアリティは崩壊してしまう。

仮にQが、ジム・ワトキンスや、その息子の5ちゃんねるの管理者で、当時札幌在住だったロン・ワトキンスだったとすれば、なぜ彼らが政府の機密情報や民主党や芸能人の幼児虐待を知りえたのか、その疑問だけで「リアル」は消え失せてしまうわけです。

ただし、Qアノン陰謀論のコアである「人身売買組織が幼児を誘拐していて、アメリカを牛耳っている民主党などのリベラリストである」という話を信じている人は、むしろQアノン現象の全盛期よりも増えている。Q自身は影響力を失ったけれど、陰謀論のフレームは拡大してしまっている。これこそが匿名の議論のパワーで、一度でも火のついた議論は収拾がつかないというわけです。「誰かが言った。誰がしゃべろうがかまやしない」という、サミュエル・ベケットの不条理小説にあるような事態にわたしたちは直面してしまっているのです。