「破壊」はできても「構築」はできない

ただ、こうしたポジティブな側面は、あくまでも言論の自由が担保されていない社会においての話です。

言論の自由が一定担保されている現代日本のような社会で、果たして匿名掲示板で無名の主体として議論することがどこまで必要なのでしょうか?

結論から言えば、私は自由な言論空間のメリットを理解しつつ、それでも懐疑的です。私の考えでは、匿名の議論は既存のシステムを破壊する力はあるけれど、新たな社会を構築・建築していく力はない。匿名の議論は政治的に無効ではないけれど、それだけだと絶対に失敗します。

たとえば、2010年以降中東アラブ世界で広がった民主化運動「アラブの春」があります。「フェイスブック革命」とも呼ばれ、SNSを活用した運動の広がりが注目されました。チュニジアで失業中の青年が焼身自殺を図った事件をきっかけに、民主化デモがアラブ世界全体に波及した。実際に、30年間に及んだエジプトのムバラク政権など、長期政権が崩壊し、大きな社会変革が起きたのは事実です。しかし、結果的に民主化が達成されたのかというと、そうではない。10年が経った今も、内戦や政治の混乱が続いています。

結局、責任主体のない議論というのは限界があり、時に過つのです。そしてその過ちは取り返しのつかない禍根を引き起こすことすらある。

匿名の言論空間では、私の意見かどうかも、あなたの意見かどうかも、第三者の意見かどうかもわからない意見が永遠に流れています。発言の主体のない言葉、主語のない言葉が乱れ飛んでいる状態なのです。たとえそこから何かの動きが形になったとしても、収拾がつかない結果に終わることが多いのではないかと思います。エリック・ホッファーが指摘するように、狂信者は破壊することはできるが、目的を達成することができない(『大衆運動』紀伊國屋書店)ということです。

こうした危険性があるにもかかわらず、匿名であることは、人を大きく動かす力を持っています。

たとえば、アメリカを中心に広がった極端な陰謀論「Qアノン」。「Q」なる人物が匿名掲示板「4chan(ちゃん)」で投稿を始めたことがきっかけと言われています。初期に「来週ヒラリー・クリントンが逮捕される」という予言が外れた時から、デマの温床であることは誰の目にも明らかでしたが、多くの支持者を獲得することになりました。

2021年には、「Q」に煽られた群衆が米連邦議会議事堂を襲撃し、5人の死者を出す前代未聞の事件にまで発展しました。

なぜこんなことが起きたのでしょうか。