なぜ匿名掲示板は世界各地で問題を起こしているのか。共著で『2ちゃん化する世界』(新曜社)を上梓したフリーライターの清義明さんは「責任主体が問われないので、ウソがウソとバレない。その代表例がかつて社会現象になった『電車男』。冷静に読むと安っぽい物語だが、『ウソでも感動できるならいい』と評価された。これこそがポスト・トゥルースの怖さだろう」という――。(構成=小池真幸)

「匿名掲示板=悪」ではない

匿名掲示板に対するイメージは、人によって大きく異なると思います。

「便所の落書きである」という批判もあれば、「集合知が生まれる革命的な場所だ」という絶賛もあります。私は、効用もあるとは思いますが、副作用があまりにも大きすぎる、と考えています。

匿名掲示板とは、要するに、責任主体が問われない言論空間です。ロシアや中国、または現代の香港のように、民主主義が機能しておらず言論の自由が大きく制限された場所では、責任主体が問われない言論空間の持つ破壊力は重要でしょう。

私も共著者の一人である『2ちゃん化する世界 匿名掲示板文化と社会運動』(新曜社、2023)に詳しく書かれていますが、たとえば2000年代後半の「フリーチベット運動」は匿名掲示板での議論が現実化したものです。また2019年以降の「香港民主化デモ」においても、香港のみを主に対象とした匿名のオンラインプラットフォーム「LIHKG」が大きな力を発揮しました。

ハッカー
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言論の自由が担保されている社会でどこまで必要なのか

匿名掲示板のポジティブな面としては、新しい「政治的市民」を多数生み出すことができるという点があると思います。「政治的市民」とは、政治活動を行う市民のことですね。

匿名であることで、初めて政治的意見を発信できるようになる人が一定数います。

たとえば、戦前日本に生きていた人々。実は日本っていうのは、戦争期を除いて比較的言論の自由が担保されていた。ですから、戦前日本というのは民主主義国家だったわけです。にもかかわらず、この時期に政治的市民が十分に育ったとは言えません。なぜなのか。

この理由について、政治学者の久野収は「市民主義の成立」(1960年)という論考[『久野収セレクション』(岩波書店)所収]で、「職業と生活が分離していなかったからだ」と指摘しています。

たとえば、農民は農地の地主との関係性の中で生活をしていて、職業と生活が切り離せなかった。職業と生活が一致しているのは多くの現代のサラリーマンも同じで、会社の悪口や利害関係に相反する政治的見解を言うとクビになってしまう恐れがあるので、政治的な意見を言いづらい。

しかし、匿名掲示板においては、匿名であるがゆえに無茶な意見であっても、実際の職業的立場に関係なく発言することができます。つまり、職業と生活の分離が実現するのです。匿名であることで、多くの人々は初めて政治的意見を発信できるようになり、インターネット上で政治的市民が生み出されるというわけです。職業だけではありません。人を取り巻く人間関係そのものからも分離していきます。あらゆるしがらみから自律した政治的市民が、匿名掲示板によって大量に誕生したのです。

民主化デモから始まる、香港ナショナリズムの先鋭化においても、匿名掲示板の「無名」性が果たした機能は大きかったのではないかと想像しています。