「1作ごとに解散」という運営方針

こうして1985年6月15日、ついにスタジオ開きが行われた。2日後の17日には宮﨑がスタジオ入り。以後、7月18日に野崎俊郎美術監督、8月5日に丹内司作画監督、8月16日に金田伊功原画頭、9月6日に山本二三美術監督と、メインスタッフが次々とスタジオ入りをした。

なおスタジオジブリの運営については、高畑が大きな方針を決めていた。それは会社経営のリスクを減らすため、1作作るごとにスタッフを集め、解散するという方針だ。この制作スタイルは、社員制度に移行する『おもひでぽろぽろ』の前作『魔女の宅急便』まで続くことになる。また、高畑自身は『風の谷のナウシカ』と同様に、プロデューサーという立場で『天空の城ラピュタ』に参加することが決まっていた。

鈴木敏夫『スタジオジブリ物語』(集英社新書)
鈴木敏夫責任編集『スタジオジブリ物語』(集英社新書)

作画監督・原画のメンバーは総計21人。そのうち約3分の1は、『ナウシカ』制作時の原画メンバーからの移行組である。また前作にも参加した作画監督の丹内司のほか、篠原征子、二木真希子、遠藤正明、友永和秀といった日本アニメーション、テレコム・アニメーションフィルムといったスタジオで宮﨑とともに仕事をした作画スタッフが参加しているのも特徴の一つといえる。

実はこれらのメンバーの一部は、クレジットはされていないものの、『ナウシカ』の追い込みを手伝ったこともあったという。また後に『青の6号』で監督となる前田真宏や、ジブリ作品である『総天然色漫画映画 平成狸合戦ぽんぽこ』で作画監督を務める大塚伸治の名前も見える。

美術監督は2人という、当時としては異例の体制。野崎俊郎は、『ペリーヌ物語』『赤毛のアン』の美術を担当し、『風の谷のナウシカ』で宮﨑作品に初参加。『天空の城ラピュタ』が初の美術監督となる。山本は、宮﨑の『未来少年コナン』で美術監督を務め、『ルパン三世 カリオストロの城』で美術を担当。また高畑の『じゃりン子チエ』でも美術監督を担当した。

当初は悪役ムスカの野望が強く出たストーリーだった

『天空の城ラピュタ』のストーリーは、すでに宮﨑がスタジオ・インする以前に準備稿が一度まとめられていた。物語の骨格は定まっていたが、悪役として登場するムスカの野望と挫折が主題となっており、主人公であるパズーとシータの存在感が薄く、いささか物語のバランスを欠いている部分があった。鈴木と高畑のそうした指摘を踏まえ、宮﨑は脚本を再度改め、その脚本をベースに6月より絵コンテの執筆をスタートさせた。

『天空の城ラピュタ』の場面写真
© 1986 Studio Ghibli

作画インは1985年9月。スケジュールはかなり押し気味に進行し、たとえば2カ月後の11月の時点では原画が予定の半分、背景に至っては予定の50分の1しか上がっていない状況だった。そのため大晦日にも多くのスタッフがスタジオで仕事をしており、除夜の鐘を聞いた後、スタジオからそのまま初詣に出かけたというエピソードもある。その後、1986年1〜3月に驚異的なペースで巻き返しが行われ、7月23日に初号試写が行われた。