スタジオジブリの宮﨑駿監督は『魔女の宅急便』の完成後、スタジオを解散させるつもりだった。ところが、複雑な作業に対して給与が安すぎるという問題が起きたことで、その方針は転換される。スタジオジブリ代表取締役プロデューサー・鈴木敏夫さん責任編集の『スタジオジブリ物語』(集英社新書)より、一部をお届けしよう――。
『魔女の宅急便』場面写真
© 1989 角野栄子・Studio Ghibli・N

10億円の宣伝費を投入

『魔女の宅急便』は1989年7月17日に完成、7月29日から公開された。公開されると大ヒットとなり、最終的には配給収入21億7000万円、観客動員数264万619人という成績を残した。当然ながらこれは、この年の邦画ナンバーワンヒットで、さらには、1978年に公開され、アニメブームを象徴し空前のヒットといわれた『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(舛田利雄監督)の配給収入21億2000万円を超える興行成績となった。

このヒットの原動力の一つは、それまでの作品以上に宣伝展開に力を入れたことにある。

きっかけは鈴木が東映の責任者から「宮﨑さんもこれまでだね」と、言われたことだった。この関係者は、『ナウシカ』から『トトロ』と作品を重ねるにつれて興行成績は次第に下がってきていることを指摘したのだ。そこで鈴木は「絶対に『魔女の宅急便』をヒットさせよう」と、そのための方策を考え始めた。

鈴木は、広告代理店に勤める知人に、新商品を宣伝するのにどれぐらい費用をかけるものなのか、尋ねたことがあるという。その時の答えは10億円。商品名を周知させるのに5億円、その中身について知ってもらうのに5億円かかる、というのだ。そこで鈴木は『魔女の宅急便』について、タイアップも含め、10億円相当の宣伝展開をすることを決めた。

日テレがジブリの新作公開前に過去作を放映する経緯

鈴木はまず日本テレビに協力を要請した。日本テレビは、『ナウシカ』を含むジブリ作品のTV放映権を持っており、その縁をたどって、映画への出資と、そのための宣伝への協力を依頼したのだ。日本テレビの窓口となったのは、金曜ロードショー担当、映画部の横山宗喜。同局は、1985年に『風の谷のナウシカ』をテレビで放映した時、『ナウシカ』原作本のプレゼントへの応募が100万通を超えるという熱狂的な反響を経験していたこともあり、ジブリ作品への出資は比較的スムーズに決まった。こうして『魔女の宅急便』は徳間書店とヤマト運輸に日本テレビを加えた3社の製作になった。

鈴木は、横山の部下である奥田誠治とともに、いかに同局の番組で『魔女の宅急便』を取り上げてもらえるか、検討を重ねた。奥田が日本テレビの番組を解説し、それぞれの番組にどのような企画を提案すれば『魔女の宅急便』と結びつきが生まれるか、一つ一つ確認していった。

そして局内を回り、各番組のプロデューサーとディレクターに、『魔女の宅急便』をPRした。この作戦は功を奏し、日本テレビの多くの番組で『魔女の宅急便』が紹介された。この作品以降、定期的なジブリ作品のテレビ放映や、公開直前のPRなどで、日本テレビは大きな役割を果たしていくことになる。