2023年3月28日、71歳の生涯を閉じた坂本龍一。日本人で唯一、米アカデミー賞作曲賞を受賞した偉大なる作曲家は、どんな人物だったのか。東京大学教養学部と東京藝術大学音楽学部の非常勤講師でありボーカロイド音楽についての講義、通称「ぱてゼミ」を持つ鮎川ぱてさんは「80年代のバブル期から活躍した坂本は日本の一番良い時代を生きた。しかし、21世紀に入ってからも自己を更新しつづけた非凡なアーティストだった」と振り返る――。
2017年9月、坂本龍一を追ったドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が第74回ベネチア国際映画祭のアウト・オブ・コンペティション部門に公式出品された。
写真=Matteo Chinellato/Sipa USA/時事通信フォト
2017年9月、坂本龍一を追ったドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が第74回ベネチア国際映画祭のアウト・オブ・コンペティション部門に公式出品された。

「日本史上最良のとき」を生きた芸術家

巨星墜つ。坂本龍一が亡くなった。

坂本の死をめぐって、いますでに、その偉大な歩みを総括するたくさんの記事が公開されたあとだろう。私も、それらの著者と同様に、坂本の逝去を心から悼むひとりである。

この記事は、ふたつの意味で、後追いである。多くの記事は、坂本が生きた同時代を並走し関係を持った然るべき人々が書いている。そんな中、編集部が私にくれた依頼はこうだった。私や、さらに下の若い世代にとって、坂本龍一とはなんだったか。すなわち、坂本龍一に「後追い」世代が言えることはなにか。そう、私は坂本龍一の最良のときをリアルタイムでは知らない「後追い世代」なのだ。

「その最良のときを知らない」。その思いが、長年坂本の活動を追ってきた自分の感情と距離意識を、複雑なものにしている。そしてそれは、あなたが日本という国家に抱く感情と、少し似ていたりはしないだろうか。

坂本龍一は1952年に生まれた。少し上の団塊世代が「闘争の68年」を大学生として戦っていたとき、都立新宿高校に通う高校生として同じ時代を経験する。70年代には東京藝術大学音楽学部作曲科で学び、同大学院で修士課程を修了。並行してプロミュージシャンとしての活動を開始。79年、日本発で真に「世界的成功を収めた」と形容しうる唯一のユニット、Yellow Magic Orchestraとしてデビュー。そして日本全体が好景気(バブル景気)に躍ったという、あの80年代の到来である。

後にも先にもない「アジア人のアカデミー作曲賞受賞」

83年には、大島渚監督作『戦場のメリークリスマス』で主演と音楽を担当。同映画のテーマこそは、私見では坂本作品の頂点に位置する名作だ。そこでできたプロデューサーとの関係性を延長するかたちでベルナルド・ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』の音楽と出演を担当。同作の音楽によって、88年、デヴィッド・バーンと蘇聡(スー・ツォン)とともに、アカデミー作曲賞を受賞。アジア人による同賞の受賞は史上初めて。坂本、若干36歳。翌年12月末、日経平均株価は現時点での史上最高値を記録する。

坂本のアカデミー作曲賞受賞は、いまの目線で見ると、いや当時の目線で見ても、明らかに例外的である。それ以前の受賞者にアジア人はいない。彼らの受賞がいかにスキャンダラスでリベラルだったことか。それ以後のアジア人の同音楽賞の受賞は、12年後の2000年、中国の譚盾(タン・ドゥン)が最直近であり、以後現在に至るまでの22年間には存在しない。

タワーレコード渋谷店7Fの坂本龍一追悼コーナー
撮影=プレジデントオンライン編集部
タワーレコード渋谷店7Fの坂本龍一追悼コーナー