「交響曲第9番」や「エリーゼのために」など数々の名曲を生んだ作曲家ベートーヴェンは、どんな人物だったのか。音楽プロデューサーの渋谷ゆう子さんは「生涯独身だったベートーヴェンは身分の違いから数々の失恋をしたことで知られているが、実際は身分差以前に、猪突猛進型で自爆するパターンだった」という――。

※本稿は、渋谷ゆう子『名曲の裏側 クラシック音楽家のヤバすぎる人生』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。

だれとも結ばれないまま56歳で生涯を閉じる

音楽史上最も有名で多大な影響を残した作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。ライオンヘアで赤いスカーフの気難しい肖像画が音楽室に飾られ、第九(交響曲第9番)は日本の年末に欠かせない風物詩となっている。そんな偉大なるベートーヴェンのプライベートといえば難聴に悩まされただけでなく、愛する女性にことごとく振られ続けた不遇な生涯だった。

ベートーヴェン(1770-1827)
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1770年 神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれる。
1787年(16歳)ウィーンへ行きモーツァルトを訪問。
1792年(22歳)ハイドンに弟子入り。ウィーンに移り住む。
1801年(30歳)「月光ソナタ」作曲。
1802年(32歳)難聴を苦に、オーストリアのハイリゲンシュタットで遺書を書く。
1809年(39歳)交響曲第5番「運命」を出版。
1810年(40歳)「エリーゼのために」作曲。
1824年(54歳)交響曲第9番を作曲。
1827年(56歳)肝硬変のため死去。葬儀にはウィーン市民2万人が参列した。

1770年、ドイツのボンでベートーヴェンは生まれた。歌手でアルコール依存症の父親のせいで生活は困窮し、当の父親から才能と収入をあてにされるという、人生のスタートからして不穏な空気を纏っていた。

しかし音楽的才能は進化し続ける。16歳のベートーヴェンは当代きっての大作曲家であるモーツァルトに会いたくて、ドイツからオーストリアのウィーンまで行ったりもする。情熱と積極性。これがベートーヴェンのひとつの特徴だ。

近隣トラブルで引っ越しは70回以上にも

その後偉大なる作曲家ハイドンにもその才能を見出され、1792年、当時文化の中心であったウィーンに移り住み、作曲家への道を開いていく。ただ性格に難ありと評判で、恩人ハイドンから「ハイドンの弟子って楽譜に書いていいよ」と言われて「お前からは何も教わってないわ」と断固拒否した逸話はなかなかである。人でなし加減が振り切れていて、いっそ清々しい。

そんなベートーヴェン、このウィーンでは第5番「運命」や「第九」をはじめとしたオーケストラ楽曲やピアノソナタなど数多くの素晴らしい作品を残した。気難しく変わり者で気分屋の性格が災いし揉め事も多発。ウィーンでの引っ越しは70回以上にも及び、半年に一回は引っ越ししている計算になる。

度重なる移転の理由は、ハチャメチャな生活にあった。引っ越す、引っ越さない、行くところがないなどと騒ぎ、友人や近隣を巻き込んでの騒動に発展したりもする。当時ピアノや大量の楽譜と一緒の引っ越しは大変なことだった。

そんな落ち着かない中で作曲を続けるが、20代後半頃にはすでに難聴の気配があり、40歳頃には全く聞こえなくなっていたという。大量の飲酒のせいもあり体中を病が進行していった。交響曲第10番を完成できないまま、1827年56歳で亡くなった。