宮﨑駿はロケハン先のウェールズで雲ばかり見上げていた

作品の対象として小学生を重視しているのは、『ナウシカ』の舞台挨拶に立ったところ、予想以上に観客の年齢層が高かったという宮﨑の経験が反映されている。この時の経験が、アニメーションにとっての本来の観客層を見つめ直したいという思いにつながったようだ。

徳間書店側はすぐにこの企画にGOサインを出した。企画書はこの後、第2稿、第3稿を経て内容がつめられた。また準備稿執筆前にあたる1985年5月18日から、宮﨑は単身イギリスのウェールズへ2週間のロケハンにも出かけた。高畑、鈴木、亀山修の3人が見送った。このロケハンの成果は、主人公パズーの暮らすスラッグ渓谷の風景などに生かされることになった。

ロマンアルバム 天空の城ラピュタ』には、スタッフの知り合いが渡英したところ、偶然にもこのロケハンの時に宮﨑を案内したガイドと出会ったというエピソードが紹介されている。それによると、ガイドは、ロケハン中の宮﨑について「名所旧跡はあまり見ないで、炭鉱や草原とか変わったところを見物したがったなあ。空を見上げて雲ばかり見ているので、よっぽど『日本に雲はないのか』と聞こうと思ったんだが、やめといた」と語っていたそうだ。

スタジオ探しの「思わぬ壁」

企画が決まったことで半年近く動きのなかったスタジオジブリも、本格的始動に向けて動き始めた。

ジブリは徳間書店の関連会社のため、徳間社長が代表取締役を兼任していたが、当然ながら現場を担当する役員が必要となる。そこでトップクラフトの原徹が、ジブリ専従として就任することになった。

宮﨑がロケハンに行っている5月中旬から、具体的なスタジオの場所探しがスタートした。旅立つ前に宮﨑から出されたスタジオへの注文は「窓が大きくワンフロアーであること」「環状8号の外側に位置すること」。鈴木と高畑、それに原の3人は、宮﨑の条件を踏まえつつ、アニメ関係企業が多いJR中央線に沿って、中野から順番に不動産屋をまわり、スタジオに適した物件を探し続けた。

このスタジオ探しには、ちょっとしたエピソードがあった。物件を探す中で、3人が不動産屋から門前払いを食らうことがあったという。それも一度だけでなく、何度か繰り返された。そこで鈴木はどうも何かおかしいと考えはじめた。

住宅の提供を拒否
写真=iStock.com/Andrii Yalanskyi
※写真はイメージです

鈴木が出した結論は「服装」。不動産屋巡りをしている時、ちゃんとスーツを着ていたのは原のみ。鈴木、高畑は、普段の恰好とそう変わらない薄手のジャンパーだった。いい歳した大人がジャケットも着ないで歩いているから、不動産屋は怪しいと思い、警戒したのではないか、というのが鈴木の分析の結果だった。鈴木の指摘を受けて、翌日より高畑はジャケットを着てスタジオ探しを再開することにした。

すると、成果がさっそくあらわれ、その最初の日に吉祥寺駅の近くで目指す物件を見つけることができた。新築されていた第二井野ビルで、4階建ての2階部分を賃借することになった。フロアーの中央にエレベーター部分を持つ「コ」の字型のワンフロアーで、広さは76.6坪あった。1階にはテナントとして喫茶店が入っており、スタッフの打ち合わせ場所などとしても活用されることになった。