明治から大正時代にかけて教誨師を務めた浄土真宗僧侶の田中一雄は、当時から死刑廃止を訴え続けてきた。だがそんな田中が唯一「死刑もやむを得ない」と記した死刑囚がいた。ノンフィクション作家の田中伸尚さんの著書『死刑すべからく廃すべし』(平凡社)より、一部を紹介しよう――。
おりに閉じ込められた人の手のイメージ
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短絡的な計画殺人と思われたが…

岐阜県出身で寄留先の茨城県で殺人事件を起こした死刑囚がいた。1853(嘉永6)年の生まれで犯罪時の年齢は40代後半であった。1901(明治34)年10月17日夜、かねて知り合いだった精米水車業者宅へ行き、無心したところ拒否された。そこで男は短絡的に殺して強奪するしかないと、凶器を用意し、しかも、血痕が衣服に付かないように裸になって同じ日の深夜に同宅を襲い、夫婦を殺害して金品を奪った。計画的で悪質な犯行であった。これが裁判の判決謄本に記載された「事実」だった。

ところが男が田中と典獄の藤澤に語った「事実」は、いささか事情が違っていた。精米水車業者宅で8カ月間手伝いをしたが、約束の労賃が払われなかったので何度も催促したが断られた。犯行に及んだ日は、手許に金がほとんどなくなり、労賃の支払いの催促に行ったところ、わずかな金銭を投げつけられたために、談判したが拒否されて殺害に及んだというのだった。

判決で認定された事実と判決確定後の本人の弁と異なる例はほかにもあったが、その究極は冤罪えんざいである。男の説明はしかし冤罪とは異なり、犯行の事実認定の誤りで、そのとおりなら死刑判決に疑義が出る。田中にはしかし、その真偽を確かめる術はなかった。

備考欄に「可憐なる囚人」と記されるほどの死刑囚

夫婦を殺害した男は若いころから素行が悪く、生業も持たず、諸国を流浪し、放蕩ほうとう三昧を尽くしたが、真宗門徒で信仰心は篤く、田中の教誨きょうかいを熱心に、かつ喜んで聞いた。性格も温順だった。そこから田中は裁判で認定された「事実」を男が争わなかった心理をこう推し測った。「信仰の厚きため、人を殺せば自分も殺さるるは当然のことと思い」、裁判では事実の争いをしなかったのではないかと。

田中は刑死したこの死刑囚について「備考」欄の末尾で、信仰が篤いだけではなく、性格は温和、獄則もしっかり遵守し、年も50を越え、思慮分別もあり、長く監獄に拘禁しておいても逃走を企てる心配もないなどから、「死刑不必要」と刻むように記す。

獄則を遵守し、教誨に耳を傾け、それに応じた死刑囚に田中は「備考」欄の末尾に「称名念仏怠りなき」「可憐なる囚人」「獄則をよく遵守し」「惜しむべし」などと記すことが多く、言外に生命を奪うことは認め難いというニュアンスがにじむ。