親殺しの物乞い死刑囚は「救い難い」
教誨に自信のあった田中が救い難いとあきらめたような死刑囚がいた。
越後生まれで住所は定まらず、父母と一緒に諸国を徘徊し、物乞い(「乞食」と表記されている)で辛うじて生活をしていた34歳の男である。1901(明治34)年8月、避病院(伝染病隔離病院)近くで、同じ物乞い生活をしていた女性と知り合い、夫婦になりたいと思い母に相談したところ、強く反対された。何度頼んでもダメの一点張りだった。母が邪魔になった男は親殺しに走ってしまった。
田中のこの死刑囚への向き合い方は、他の死刑囚への寄り添うような姿勢が影をひそめ、眼差しは冷たい。手記の記述をそのまま記すと、「本人は非人、即ち乞食なれば、別に思慮ある者にあらず、己が色情を妨害せられしに由り、この如く無惨の挙動に出でしものなり」。
物乞いで生きているから、思慮が足りないと田中は極めつける。手記の末尾で田中は「本件に付いては救護の道なきもののごとし」と突き放し、このような人物は死刑になっても仕方がないというニュアンスが伝わってくる。田中も身分によって人を極めつける意識や感情からは自由ではなかったのだろうか。
藤澤から刑の執行を伝えられた朝、男は「頻りに命が助かりたし、助かりたし」と哀願した。このような死刑囚にこそ田中には寄り添ってほしかったと、100年後の手記の読み手は思う。
死刑の執行は1902(明治35)年2月2日午前だった。死刑の確定期日は手記には記載されていないが、前年8月の犯行から半年後に執行されているから、やはり確定から死刑執行までの期間は短かっただろう。
最後まで冤罪を訴え続けた男
手記に記載されている114人の死刑囚のうち明らかに冤罪と田中が断じたケースは見当たらない。教誨師は判決謄本によってのみ事件の「事実」を知る。冤罪の可能性があっても教誨師は真偽を判断できない。だが冤罪をくり返し訴えた死刑囚が田中の前に現れた。
1860(万延元)年生まれの茨城県出身の死刑囚である。判決によると、1900(明治33)年夏のある夜、県内の山林内の山小屋に侵入したこの男は持参した出刃包丁とその場にあった斧で小屋の主を殺害し、現金5円や物品を奪った。
男は教育を受けたことはなかったが、窃盗などの犯罪を何度も重ねたために獄中で読書や学習をし、読み書きや思考力も身につけていた。大審院でこの男の死刑が確定したのは1904(明治37)年2月6日だが、田中の前でも一貫して冤罪を主張し、死刑に処せられることがどうしても納得できないと訴えるのであった。田中の教誨には冤罪だからと耳をふさぎ、懺悔の念はなく、罪に服する意思もまったくなかった。田中の大慈大悲を語る仏教的な教誨にも感応は薄弱だった。遺言は短い。
「冤罪を以て死刑に処せらるること頗る遺憾なり。故に刑に処せらるる人物にあらざることを世に証明するには(以下17字は文意乱れ、不明のため省略)、遺骸を解剖せられ、医学上の参考に供せられんことを望む」
男は1905(明治38)年2月15日に処刑されたが、しきりに主張した冤罪の具体的な中身は手記にはない。しかしこの男が冤罪を訴えた事実は手記に残された。