財産分与を断られて凶行に手を染めた男
しかし死刑囚のだれもが教誨を受け容れたわけではない。
岐阜県出身の死刑囚(犯行時40歳)は熊本で知り合った女性と対馬へ渡り、夫婦同様の生活をしていたが、生活費のために不動産など資産のある女の実父(東京市四谷区在住)にしばしば虚言を弄して金を送らせていた。
2人は1900(明治33)年11月ごろに長崎に移住して鮮魚・酒小売店を営んでいたが、数カ月で失敗した。生活費にも困っていた折り、男は娘の父親が不動産分与の意思があることを知った。男はすぐにでもそれを実行するようにと女に迫り、上京した娘が父に懇願したが、存命中の財産分与はできないと断られた。冷たく扱われたと思った娘は、長崎に帰って男に父の生存中には財産は得られないと伝えた。
男は娘の父を殺めて財産を奪うしかないと決心し、父親の住まいの間取りや構造を娘からくわしく聞き、1903(明36)年9月20日深夜に父親宅に忍びこみ、玄関脇の3畳間で寝ていた父親と、気づかれた父親の妾の2人を持っていた仕込み杖で斬殺した。謀殺と故殺だった。
執行前最後の教誨すら「要らん」と拒否
高等小学校卒業程度の教育のあった男は、一時キリスト教を信じていたようだと田中は記しているが、それ以上のことには触れていない。刑の執行年月日も手記にはないが、1904(明治37)年半ば以後と思われる。田中はしかし、この男の「心理」については厳しい。
「いたって不遜なる性質にて、気短く、疑い深く、とにかく物事に自分勝手な曲解をする」、何でもないことに当たり散らし、「一癖ありそう」な人物で、「人の為すべき道に背いて邪悪なことを為し」「自分の情婦の父を殺してその財産を奪うようなことは、到底普通人の為し得ることではない」と断じている。
田中が死刑囚を酷評している例はほとんどないが、そんな数少ない一人だった。刑の執行日に典獄がいつものように「何か遺言がないか」と訊くと、「何もない」とぶっきらぼうに返し、「家族はないのか」と問うても「なし」と答えるのみだった。田中とは違う教誨師が執行直前に最後の教誨をほどこそうとしたところ、「宗教の話は要らん。田中教誨師の教えを聞いて十分だ」と拒絶するのであった。
執行直前の最後の教誨を「要らん」という死刑囚は珍しく、「死を恐れる様子もなかったが、とにかく風変わりな者」と田中はもてあましたようだった。死刑の是非については一言もないが、さりとて死刑当然ということばもない。
共犯者の女性は無期刑だったが、1910(明治43)年に仮出獄したとある。