大家も「田中千津子」さんなのか知らない
その後、今度は家庭裁判所の中でも調査官という調査専門の役職が、大家から女性について聞き取りをしたが、ほとんど手がかりは得られなかった。40年間の店子について、契約書類からわかる以上の証言は得られず、亡くなった女性が「田中千津子」さんなのかすら知らないというのだ。
当時の賃貸借契約書は、茶封筒に入っている状態で見つかった。書面は縦書きで、1980年代の文書の割には幾分、古めかしい印象だった。アパートは「文化住宅」と表現され、1カ月の家賃が2万2000円となっている(当時)。
契約日は1982年3月8日で、貸主は当時の大家(故人、現大家の夫)。借主は「田中竜次」で田中の印があり、勤務先は「富士化学紙 (471)71××」、住所は錦江荘の住所となっている。直前に住んでいた住所ではないのだ。「媒介者」として尼崎市の不動産業者の名もある。
法的な意味での「賃借人」が「田中竜次」である理由は、この契約書が残されていたためだった。しかし、少なくとも確実にそこに住んでいたとみられるのは、「田中千津子」と目される女性のみである。
勤務先となっている富士化学紙工業は、その後、「フジコピアン」に社名を変更している。警察は同社に「田中竜次」名で過去の在籍について照会したものの、同名の社員がいた事実は確認されなかったという。
プロの探偵も収穫ゼロの「製缶工場調査」
さて、「田中千津子」さんの遺体発見から約10カ月経った2021年2月15日、太田弁護士が相続財産管理人に選任される。太田弁護士は自ら錦江荘へ赴き、片付け作業に従事したが、身元特定につながる資料は何も見つからなかったという。
太田弁護士は、女性が亡くなってからかなり時間が経過しており、関係者の記憶もどんどん薄くなっていくことを懸念して、探偵を雇って調べることに。3月からほぼひと月にわたって、プロの探偵が調査に入ることになった。
探偵は有用な情報を整理したうえで、調査事項を大家・製缶工場・商店街・尼崎駅周辺の4つに絞り込み、聞き込みに回ったようだ。
製缶工場に関しては、近隣住民への調査から、当時の経営者は10年以上も前に死去していたことが判明。登記上の経営者宅は空き家状態になっていた。高齢の妻は重度の認知症で、一人娘が引き取ったという。その後も周辺の調査に手を尽くしたようだが、成果は上がらなかった。工場の関係者が女性と面識があったのは確実であり、この線での調査の失敗に探偵も残念がっていたという。