悲しんで、悲しんで、悲しみ尽くすと、生命の力が湧いてくる
対象喪失できる人、そういう反応を示すことができる人は、心の水準が高い人です。うつ病になれる人のほうが、うつ病になれない人よりも、心の水準は高いところにあることが多いです。
精神分析はもともとフロイトが、自分の父親が死んだ時にそのことを悲しんで悲しみ尽くした体験をきっかけに考えられたという歴史的な経緯があります。このように精神分析では「断念するということ」「あきらめるということ」が大きな「目標」になるのです。
あきらめるとは、もともと「明らかに見る」という意味です。あきらめる。断念する。これを体得することが精神分析の大きな目標になっている。だから「断念の術さえ心得れば、人生もけっこう楽しい」というわけです。
フロイトは言います。
「喪の悲しみはそれがどれだけ痛ましいものであっても、自ずと尽きてしまう。失われたものを何もかもあきらめた暁には、悲しみそれ自体も尽きはててしまう。そうなれば私たちのリビードも再び自由になり、私たちがなお若々しく生命の活力を持っている限り、できるだけ同じくらい貴重なもの、あるいは、より貴重なものによって失われた対象を代替することができる」(本間直樹訳「無常」 村田純一責任編集『フロイト全集14』岩波書店332-333ページ)
つまり、悲しみそれ自体が尽き果ててしまうくらいに悲しみ尽くすこと。そうしたら、その後に、なお若々しく生命の活力が戻ってくる。あるいは、同じくらい大事なものがまた見つかるとフロイトは言うのです。
現実を見ないポジティブ・シンキングは心が未成熟な証し
人生は、自力ではどうしようもない出来事の連続です。人生の根本的な苦しみは、仏教では「生老病死」といいますが、フロイトは「体の衰え」「自然も含めた外界」「他者との関係」の3つを重要視し、中でもとりわけ「他者との関係」が大きいと言います。では、どうすればいいか。
フロイトは、悲しみそれ自体も尽き果ててしまうほどに失われたものを何もかもあきらめることが大切だといいます。「悲しみ抜く」ということが、大事なのです。
失ったものを悲しんで、悲しんで、悲しみ尽くせ。涙も枯れ果てるほどに。
そう言うのです。
フロイトの精神分析が「断念の心理学」と呼ばれる所以ですね。
ここには、人生の重要な真実が記されていると私は思います。
何かを心から断念し、あきらめることで、はじめて私たちの心は解放され、自由になれます。何かを失ったときに、泣いて、泣いて、泣き尽くす。悲しんで、悲しんで、悲しみ尽くす。そうして大切な何かを断念するという心の術、「断念の術」を体得する。これが中高年にとっては、とても大きなことなのだというのです。
変にポジティブ・シンキングをして、「大丈夫だ。私は何も失っていない。まだイケる。大丈夫だ。私はまだ若い」と考えるのは、ただのごまかし。心が未成熟な証しです。
この「断念の術」を中高年が心得れば、人生もそれほど悪くないというのがフロイトの考えです。