外様大名は用済みになればお払い箱

そのおかげで姫路城はかくも美しく仕上がったのだが、やはり無理がたたったのだろう。輝政はそれから5年後に中風をわずらい、50歳という若さで他界した。

城の完成を見ることは、ついに出来なかったのである。

輝政が他界した2年後、家康は大坂の陣を起こして豊臣家を亡ぼした。さらに2年後の元和3年(1617)、池田家は当主が幼少なことを理由に鳥取三十二万石に移封される。

外様大名は働くだけ働かせ、用済みになればお払い箱にするのが、この頃の幕府の非情な方針だったのである。

姫路城だけは美しい姿を保ちつづけている

代って城主となったのは、徳川家譜代の本多忠政(忠勝の子)だった。忠政の嫡男忠刻は、大坂城から逃れた千姫を妻としてこの城に住んだ。

この頃千姫が使用した部屋が、西の丸北端の化粧やぐらにのこっている。千姫は毎朝この部屋をたずね、城外の男山八幡宮を拝して秀頼の冥福を祈ったという。

安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)
安部龍太郎『徳川家康の大坂城包囲網』(朝日文庫)

一人だけ生き残って幸せになったことが後ろめたかったのだろうが、やがて千姫に二度目の不幸がおとずれる。結婚後10年目に忠刻は死に、30歳にして江戸城の父秀忠のもとにもどらざるを得なくなったのである。

人は歴史のうつろいの中でさまざまな悲喜劇を演じ、やがて不帰の客となっていく。

秀吉も家康も、そして池田輝政も例外ではないが、姫路城だけは今も美しい姿を保ち、世界中の人々を魅了しつづけている。

天守閣を正面から見上げると、鎧兜に身をかためた輝政が、天下を睥睨へいげいするようにどっしりと座っている姿に見える。そう感じるのは、筆者わたしだけだろうか?

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