秀吉が築いた姫路城下を改修することに
秀吉の死後、輝政は加藤清正ら武断派の大名と行動をともにし、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。その功により三河吉田十五万石から、播磨一国五十二万石の大名に抜擢された。しかもその3年後には、督姫が産んだ忠継(当時五歳)の名儀で備前二十八万石を加増されたのである。
播磨に入った輝政は、さっそく姫路城の改修に着手した。
まず手をつけたのは、城域と城下町の整備である。秀吉がきずいた城は城郭としては完成度の高いものだったが、十数万人の敵を引き受けて籠城できるほどの規模ではなかった。
また城下町も城の北東に片寄っていて、山陽道の交通や瀬戸内海の水運の利を城下に取り込むには不便だった。
そこで輝政は城域を大きく広げ、本丸の外に中曲輪、外曲輪をきずいて内堀、中堀、外堀を配したが、その総延長は11.52キロにもおよんだ。
堀の広さは平均でおよそ20メートル、深さは2.7メートルもある。その工事だけでもたいへんな労力と費用がかかったはずだが、輝政は同時に城下町の建設にも着手した。
幕府は天守や本丸を新築するよう強要
北東に片寄っていた町を南に移し、山陽道や瀬戸内海とのつながりを強化したのである。しかも驚いたことに、直線の道路を碁盤の目のように配し、交通や経済の利便性をはかる大胆な町づくりを行なった。
現在JR姫路駅から姫路城まで、広々とした大手前通りが一直線につづいている。これは近年になって整備されたものだが、その土台となる都市計画はすでに輝政の頃になされていた。
しかも瀬戸内海の飾磨港まで運河を掘り、船を城下に引き入れるという雄大な構想さえ持っていた。
おそらく輝政は城域と城下町の整備に全力をかたむけ、本丸や天守閣は秀吉時代のものを使えばいいと考えていたのだろう。本丸をきずき直しては家臣や領民に過重な負担をかけるし、これからの籠城戦は城下一体となって戦わなければ守り抜けないことを熟知していたからだ。
ところが入封9年目の慶長13年(1608)になって、幕府から天守閣も新しくきずくようにという命令が来た。『池水記』に〈今年輝政公台命を承って姫路城を再営し給い、天守を建て、外郭を広くし〉と記されている通り、天守や本丸の建設は幕府から強要されたものだったのである。