休む間もなくこき使われ、経費は自分持ち

45歳という分別ざかりの輝政は、きわめて不満だったにちがいない。自分の統治権に対する不当な干渉と感じただろうし、相つぐ手伝い普請のために財政は逼迫していたからだ。

この前後に、輝政が駆り出された普請は次の通りである。

慶長6年8月 二条城の築城
〃 8年2月 江戸城の修築
〃 10年4月 内裏修造
〃 12年1月 駿府城の築城
〃 13年4月 丹波篠山城の築城
〃 15年2月 名古屋城の築城

まさに休む間もなくこき使われている。しかも工費や人件費は自分持ちなのだから、負担の大きさははかり知れないほどだった。

困窮の度合いはどの大名も同じで、名古屋城の手伝い普請の時、次のようなやり取りがあったと『慶長見聞記』は伝えている。

輝政と築城現場で顔を合わせた福島正則は、「近年城の普請が多すぎる。江戸や駿府は仕方がないが、名古屋は大御所の庶子の住居ではないか。その工事に我らが再三駆使されるのは耐え難い。御辺ごへんは大御所の愛婿じゃ。我らのためにこのことを愁訴してはくれまいか」

不平まじりに頼み込んだ。

幕府の言いなりにならざるを得なかった

輝政が何とも答えられずにいると、横から加藤清正が、「御辺は卒爾そつじなことを言うものじゃ。今城普請に耐えられねば、すみやかに帰国して謀叛するがよい。もし謀叛ができぬのなら、早々に大御所の下知げちに任せ、普請に従わねばなるまい」

笑いながらたしなめたので、その場は丸くおさまったという。

この話からは、戦国生き残りの大名たちのやる瀬なさが伝わってくる。関ヶ原の戦いで家康に身方して大封を得たものの、徐々に牙を抜かれ爪をそがれ幕府の言いなりにならざるを得なくなっていく。

しかも豊臣家を亡ぼそうとする家康の意図は明白なのだから、彼らの胸中はいっそう複雑だったにちがいない。

そうした状況で天守閣をきずけと命じられたのである。輝政の我慢の糸はプチッと切れただろうが、家康から百万石ちかい所領を与えられた身であれば、命令に逆らうこともできなかった。

「それなら見ていろ。誰にも真似のできない見事な城をきずいて、世の者たちのど肝を抜いてやる」

輝政は内向した攻撃心に突き動かされ、意匠と技術の粋をつくして天守閣をきずくことにした。

それが武士の一分をつらぬくただひとつの方法だと思い定め、全身全霊をかたむけて工事に取り組んだのである。