最も防御力が高いのはどの城か。歴史評論家の香原斗志さんは「徳川家康が建てた名古屋城だ。本丸は高台にあり、そこにたどり着くまでに広大で深い堀と高石垣で囲われた曲輪を何度も越えなければならない。史上最強の軍事要塞といえる」という――。
名古屋城(愛知県名古屋市)
名古屋城(愛知県名古屋市)(写真=gundam2345/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

征夷大将軍になっても家康が最も恐れていたこと

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、総大将を務めた東軍が大勝しても、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられても、徳川家康はまだ天下を掌握したとはいえなかった。

関ヶ原の戦いは、あくまでも豊臣政権の枠内における内部抗争で、家康は豊臣恩顧の大名たちの力で勝ったにすぎなかった。また、慶長8年(1603)の時点では、豊臣秀頼が成人したら関白になって天下を治める、というのが一般的な認識だった。

だからこそ、家康は征夷大将軍への任官にこだわったのだが、武家の棟梁とうりょうである将軍になっても、豊臣家の権威自体が否定されるわけではない。そこで家康は、わずか2年で将軍職を嫡子の秀忠に譲り、徳川家が政権を世襲することを全国の大名たちに知らしめた。

それでも、家康の不安は消えなかった。大御所として実権を握りつづけても、将軍職を退いた時点で年齢は60代半ば。当時としてはすでに長生きで、自分が老いるのに反比例して秀頼は成長していく。

中国、四国、九州には、関ヶ原の戦い後の論功行賞で国持大名となった豊臣恩顧の大大名がひしめいており、彼らが豊臣家への忠誠心を失っていない以上、自分がさらに老いたのち、または死後に、徳川政権がどうなるかわからない。

そういう状況下で家康が意識していたのは、豊臣方との避けられない一戦だった。

「天下普請」の本当の意味

その日に備えて、家康は早い時期から対策を講じた。その中核が、諸大名に工事を割り振って費用まですべて負担させる、天下普請(御手伝普請)での築城だった。そうして築かれた城は豊臣秀頼の居城、大坂城を取り囲むように配置され、家康のための豊臣包囲網になった。

関ヶ原の戦いの翌年、東海道を押さえる膳所城(滋賀県大津市)を皮切りに、彦根城(滋賀県彦根市)、丹波亀山城(京都府亀岡市)、篠山城(兵庫県丹波篠山市)などが、大坂を囲む交通の要衝に築かれた。

包囲網の一翼を担ったそれらの城の築城工事は、豊臣恩顧の西国の外様大名たちを動員した天下普請だった。大名は将軍に領土を安堵あんどしてもらう代わりに、軍役を負っていた。しかし、平時には軍役がないので、こうした工事の負担が代わりとされ、大名は命じられれば拒めなかった。

家康はそれに乗じて、場合によっては敵になりうる西国の大名たちに重い工事の負担を課し、彼らの経済力を削ぎながらその技術力を利用し、徳川政権のための防衛体制を敷いたのだ。一石二鳥どころか一石三鳥の巧妙な戦略である。