織田信長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「独創的な思考を具現化する天才だった。例えば築城に際して、それまでの城は地味で簡素だったが、彼は華美に装飾された『見せる城』を造った。以後、信長が造った城の形状が標準になった」という――。
織田信長像の複製
織田信長像の複製(画像=KKPCW/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

信長以前の城と、以後の城の大きな違い

NHK大河ドラマ「どうする家康」はCGを多用している。賛否両論があるようだが、初回に登場した大高城(愛知県名古屋市)にしても、家康の本拠の岡崎城(同岡崎市)にしても、永禄年間(1558~70)の城の様子がCGで再現されることには意味がある。

城というと広大な水堀に囲まれ、高い石垣がめぐらされ、白亜の天守がそびえる、という光景をイメージする人が多いが、戦国時代の城の様相は、このような近世の城とはだいぶ違う。一部に石垣が導入されてはいても、基本的には土塁と空堀でかためられた土の城で、建物は簡素。基本的に瓦もかれておらず、もちろん天守などなかった。

CGで構成された岡崎城を見て「砦みたい」という感想を抱く人が多いようだが、実際、当時の岡崎城は、現代人の感覚からすると「砦みたい」だったのである。

そこに、いわば「革命」を持ちこんだのが織田信長だった。

初期の信長の城にあった意外なもの

徳川家康が三河一向一揆と格闘していた永禄6年(1563)9月、信長は居城を清洲城(愛知県清須市)から小牧山城(同小牧市)に移転した。

当時、尾張国(愛知県西部)の領主だった信長は、斎藤氏が治める美濃国(岐阜県南部)の攻略が悲願だった。三河国(愛知県東部)を治める家康と同盟を結び、領土の東側への心配がなくなったのを機に、斎藤氏の稲葉山城(のちの岐阜城)を遠望でき、美濃を攻めるのに好適な城を居城にしたのだ。

ただし、近年まで、小牧山城は美濃攻略のために急造した臨時の城だと思われていた。事実、信長はそれから4年後の永禄10年(1567)8月、稲葉山城を落城させ、美濃を自分の領土に併合することに成功する。そのあいだのかりそめの城――。そんなイメージだったのだが、それは発掘調査によって見事に覆された。

標高86メートルの小牧山山頂、すなわち城の主郭(本丸)の周囲から、信長が築いたと考えられる石垣が出土し、平成26年(2014)までに、その石垣が3段で構成されているのがわかったのだ。