原形をとどめないほど山を改造

まだ石垣を高く築く技術が足りないので、3段に分け、セットバックをもうけながら積まれていたが、そこには長さが2メートル、1個の重量が2トン程度はある巨石が数多く積み上げられていた。また、主郭に入るための虎口(出入口)も、まっすぐ突き進めないように複雑に構成され、石垣でかためられていた。

当時の城は工期を短縮するためにも、技術的な未熟さからも、既存の地形を極力いかして築かれるのがふつうだった。ところが、小牧山城の山頂部は、原形をほとんどとどめないほど成形され、城に使われた前例がないほど巨大な石が並べられていた。しかも、背面には排水性を確保するための裏込め石がしっかりと組み込まれた、かなり本格的な石垣だった。

山頂の主郭は信長が住む場所だったはずだ。その周囲に巨石をもちいて積まれた石垣は、訪れた人を畏怖させるための「見せる」石垣だったと考えられる。石垣を「見せる」ために築いたのは、もちろん、信長が最初である。

小牧山山頂に建つ小牧市歴史館
小牧山山頂に立つ小牧市歴史館。(画像=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

時代を先取りしたまちづくり

小牧山城の先進性は石垣にとどまらない。たとえば、山麓から中腹まで150メートルほどまっすぐ続く大手道。その両側には重臣たちの屋敷が建ち並んでいたと思われる。一般に登城路は、敵がまっすぐ侵入できないように複雑に折れ曲がっているイメージがあるが、信長の発想は違う。

もちろん、信長も中腹から主郭は通路を複雑に屈曲させているが、中腹まではあえて道を真っすぐにした。おそらく、自然を切り開いた直線道路を「見せる」ことで、自身の威厳を示すと同時に、道の両側に屋敷を構える重臣たちを見通しのいい道路によって丸裸にし、信長に抵抗するすべをあたえない、という一挙両得をねらったのだろう。

また、城下町も直線道路で区切られ、街路ごとに武家屋敷、鍛冶屋町、紺屋町など、同職集住がはかられ、下水設備も整っていた。江戸時代の城下町を思わせる先進的なまちづくりがなされていたのだ。

ところが、これだけ手をかけた先進的な城を、信長はたった4年で躊躇なく捨ててしまった。美濃を平定すると、斎藤氏の居城だった稲葉山城を自身の本拠地にして小牧山から移転。井之口とよばれていた城下町を岐阜と改名し、その名もあらたな岐阜城に大改修をほどこした。

じつは、領土を拡張するたびに居城を移転するのは、けっして戦国大名の常識ではなかった。たとえば、武田信玄は甲府(山梨県甲府市)の武田氏館にとどまったし、上杉謙信は春日山城(新潟県上越市)を出ることはなかった。毛利輝元も秀吉に臣従するまでは吉田郡山城(広島県安芸高田市)から動くことはなかった。

徳川家康が領土を広げるたびに、岡崎城から浜松城(静岡県浜松市)、さらに駿府(静岡県静岡市)へと居城を移したので、それがふつうのように思いがちだが、家康は同盟相手の信長に倣ったにすぎない。居城の移転も、常識にとらわれない信長らしさの表れなのだ。