ジェンダー平等を重要政策の一つに掲げる日本共産党は、かつて女性党員をどのように見ていたのか。元外務省主任分析官である佐藤優さんは「創立60年に出版された党史『六十年』では、権力の弾圧に屈しなかった女性党員についての言及はたった一文のみであった」という――。
※本稿は、佐藤優『日本共産党の100年』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
『八十年』党史で語られた共産党の女性党員への見方
現在、日本共産党は「ジェンダー平等」を重要政策の一つとして掲げている。日本共産党の創立の節目に刊行されてきた党史では、権力の弾圧に屈しなかった女性党員についても言及している。創立80年に出版された『八十年』(2003年刊行・日本共産党の八十年)ではこう描かれる。
戦前、少なからぬ女性党員が、天皇制政府の弾圧に抗して不屈にたたかい、社会進歩の事業に青春をささげました。
女性の活動や組織化に力をつくすなかで三三年五月に検挙され、三五年に獄死した飯島喜美の遺品のコンパクトには「闘争・死」の文字が刻まれていました。共青中央機関紙「無産青年」編集局ではたらき、各地に配布網を組織した高島満兎は、三三年三月、活動中特高におそわれ、二階から飛び降りて脊髄複雑骨折の重傷を負い、翌年七月、下半身不随のまま死去しました。
「赤旗」中央配布局で「赤旗」の配布をうけもった田中サガヨも弾圧に倒れた一人です。三三年十二月に検挙された田中は、獄中でチリ紙に姉への手紙を書き、(中略)三五年五月に生涯をとじました。
「三・一五事件」で検挙された伊藤千代子は、天皇制権力に屈服して党と国民を裏切った夫への同調を拒否し、拷問、虐待にたえてがんばりぬき、翌年、急性肺炎で亡くなりました。(中略)
彼女たちが、党の若く困難な時期に、それぞれが二十四歳という若さで、侵略戦争に反対し、国民が主人公の日本をもとめて働いたことは、日本共産党の誇りです(『八十年』)
『六十年』での言及は一文のみであった……
一方、創立60年に出版された党史である『六十年』(1982年刊行・日本共産党の六十年)は次の一文のみだ。
飯島喜美、相沢良、高嶋(ママ)満兎、関淑子など少なからぬ婦人党員も、不屈のたたかいに命をささげた(『六十年』)