徳川家康に見限られ、没落した戦国大名・今川氏真はどんな人物だったのか。歴史家の安藤優一郎さんは「歴史ドラマやゲームでは和歌や蹴鞠に熱中し、十年弱で今川家を滅亡させた愚かな戦国大名として描かれることが多い。しかし、そのイメージは間違いだ」という――。
『集外三十六歌仙』に掲載されている今川氏真
『集外三十六歌仙』に掲載されている今川氏真(写真=静岡県編『静岡県史』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

戦国大名・今川氏真は本当に“暗愚の君主”だったのか

海道一の弓取りと称されて、東海地方で勢威をふるった今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、名門今川氏は凋落の一途をたどる。

桶狭間の戦いからわずか十年弱で戦国大名としての今川氏が滅亡したため、そのイメージは決定的なものとなったが、そこで今なお厳しい視線にさらされているのが、義元の跡を継いだ嫡男の氏真である。

今川氏真というと、これまであまり良い印象を持たれていない。蹴鞠けまり、和歌といった貴族趣味に熱中し、酒色に溺れ、軍事に関する才覚は持ち合わせていなかった――今川氏を父・義元から当主を継ぎ、あっという間に滅亡させた「暗愚な君主」と見なされるのが江戸時代以降の定番だ。

江戸初期に成立した『甲陽軍鑑』には、氏真は娯楽に興じ、政務を放り出して家臣に任せっきりにした様が記録されている。老中・松平定信は自著『閑なるあまり』で、暗君として茶道に没頭した足利義政、学問の大内義隆と並んで、和歌の今川氏真の名前を挙げた。

こうしたイメージは現代にも引き継がれ、歴史小説やドラマなどに反映されている。また、戦国時代をテーマにした歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」に登場する氏真は、他の戦国大名に比べると明らかに能力値が低い。人物画も公家風のキャラクターに描かれ、長らく最低クラスの弱小武将の扱いを受けてきた。

氏真に全責任を負わせるのは間違いだ

だが、筆者は氏真だけに今川氏滅亡の理由を求めるのは酷だろうと思う。そもそも、氏真は本当に暗愚な君主だったのだろうか。

結論からいえば今川氏を取り巻く状況の変化が滅亡を早めた一番の理由なのであり、氏真を暗愚な君主と決めつけるのは、いささか性急だ。

また、戦国大名今川氏の滅亡はイコール今川氏の断絶ではない。最後の当主氏真にしても、その後長らく生き永らえている。

そして、氏真の子孫が高家として、江戸時代には旗本身分ながら高い官位を持ち、幕府の儀典係としての役割を果たしたことはあまり知られていない。そんな知られざる今川氏真、江戸時代を生きた今川氏についてみていきたい。