北条氏のもとで復活を狙う氏真

氏真が掛川城を家康に明け渡して北条領に逃れたことをもって、戦国大名今川氏は滅亡したとされるが、その後、四十年以上生きる氏真はどんな人生を送っていたのか。

領国を退去した氏真は小田原城下にいったん身を落ちつける。氏真に同行していた正室早川殿は北条氏康の娘であったため、氏康の跡を継いでいた当主氏政とは義兄弟の関係にあった。

小田原に移った後も、氏真は旧領国の回復を諦めていなかったが、やがて北条領を去らざるを得なくなる。北条氏がそれまで敵対していた信玄と同盟関係を結んだことが背景にあった。

窮した氏真が頼ったのは、今度は信玄と敵対関係になっていた家康だが、やがて家康のもとも去る。出家し、宗誾そうぎんと名乗った。この時点で、大名として復活するのを諦めたことがわかる。

その後は妻の早川殿と共に京都で暮らし、和歌や蹴鞠などの文化に通じる氏真は公家たちと交流を重ねている。在京中には父義元を討ち取った信長の所望に応えて、蹴鞠を披露したとの俗説まであるが、さすがに実話ではないだろう。

氏真は、ずっと京都にいたのではなかった。家康のもとに戻ると、配下の武将として三河の牧野城を預けられたこともあったが、後に城は没収されている。

家康に保護され、子孫は江戸幕府の旗本になる

しかし、二人の関係はこれで終わったわけではない。その後も家康は氏真の生活の面倒をみている。後には氏真の息子や孫を召し出し、自分の跡継ぎと定めた秀忠のもとに出仕させている。

皇居正門石橋
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二人の関係には理解し難い点もあるが、名門今川氏の当主で、家康自身も厚遇されていたこともあって、氏真を粗略には扱えないという気持ちが強かったのではないか。

もちろん、政治的配慮は見逃せない。今川氏の領国を奪ったことを踏まえ、氏真や子孫に一定の配慮を施すことで、今川氏や旧臣たちの反発を最小限にとどめるとともに、世間の評価をアップさせたいもくろみは否めない。

氏真には子供が数人いたが、長男範以が父に先立って慶長十二年(一六〇七)に死去したため、その嫡男直房が家督を継いでいる。範以は徳川家つまり幕府に出仕することなく、この世を去ったが、直房は二代将軍となっていた秀忠に旗本として仕えている。つまり、今川氏が大名に復活することはなかった。

次男高久は直房にせんだって秀忠に仕えていたが、今川姓を名乗り続けることはできなかった。分家は今川姓を名乗れないのが習いという秀忠の意向があったからだ。

そこで選んだのが品川という姓である。高久が江戸で与えられた屋敷が品川にあったことが理由だが、ここに今川氏の流れをくむ品川氏が誕生する。