信長より先に“楽市楽座”を実行した先見性

まずは、家康との関係からみてみよう。

氏真は天文七年(一五三八)生まれで、家康は同十一年(一五四二)生まれであるから、二人の年の差は四歳である。ちなみに、氏真は家康死去の二年前にこの世を去っており、生涯のほとんどの時間を二人は共有したことになる。

家康は八歳の時から十年余、駿府で過ごしたが、今川氏の人質というよりも、一門として厚遇されていた。義元の姪瀬名すなわち氏真の従妹を家康が娶ったことで、二人は非常に近い姻戚関係にあった。

家康を厚遇することで今川氏の柱石となることを期待したわけだが、氏真にしても家康は弟のような存在として映り、頼みにしていたのではないか。

だが、桶狭間の戦いは二人の関係を一変させる。

桶狭間古戦場公園「近世の曙」(織田信長・今川義元)銅像
桶狭間古戦場公園「近世の曙」(織田信長・今川義元)銅像(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

義元の討死を境として今川氏の勢威が衰えるのは事実だが、それは氏真の能力の低さを必ずしも意味しない。戦国大名今川氏の当主として、領国経済を活性化させるための施策を次々と打ち出していることはたいへん注目される。

例えば、信長が創始者のようなイメージが今も強い楽市楽座令という名の経済政策を、信長に先んじて打ち出したことはその象徴である。軍事力強化の前提となる経済力の充実を目指していた。

また、用水路の開削などの治水にも力を入れたが、これもまた農業生産力つまりは経済力のアップに直結した。富国強兵を視野に入れた一連の施策だった。

家臣の離反、武田の裏切りで今川氏は没落したが…

戦国大名というと軍事力の強化に力を入れた側面が強調されがちだが、その前提となる領国経済の強化にも熱心であったことは見逃せない。その点、氏真もまさしくあてはまるのであり、領国支配の強化に努めていたことが確認できる。

しかし、あちらが立てばこちらが立たずではないが、氏真が同盟関係にあった北条・武田氏との提携を優先させたことで、三河への影響力は低下せざるを得なかった。それが引き金となる形で家康たち三河の領主たちの自立を招くと、今川氏の退潮傾向は甚だしくなる。

氏真からすると手痛い離反だった。とりわけ家康の離反は裏切られた気持ちが強かった。

その悪い流れを氏真は止めることができず、三河から今川氏は駆逐されてしまう。そして、遠江にもその流れが波及していった。

今川氏にとり決定的なダメージとなったのは、同盟関係にあった武田信玄が今川領に食指を動かしたことである。桶狭間の戦いから八年後の永禄十一年(一五六八)十二月、信玄と家康が密約を結んで今川領への侵攻を開始すると、挟撃された氏真はなすすべなく、駿府を脱出する。

そして、遠江の掛川城に逃げ込んだ。約半年にわたり家康と籠城戦を展開したものの、翌年五月に掛川城を明け渡し、引き続き同盟関係にあった北条氏に保護される身の上となる。氏真三十二歳の時であった。